マクルーハンが「すべてのメディアは身体の拡張である」と語ったのと同じ意味で、あらゆる技術は単に人間の生活スタイルを変えるだけでなく、人間の思考や物事の捉え方自体を革新してしまいます。
ようするに、常に僕らの思考や価値観はいま現在用いられている技術の影響なしにはありえない、そういうことになります。また、過去に同じように人々の思考を変えた技術の影響に僕らの思考は囚われたままということでもあると思います。
ほとほと困ってしまうのは、僕ら自身がそのことをすっかり忘れがちだというでしょう。
僕らは、あたかも自分たちが自由に考えているように信じているし、普遍的な仕方で考えていると勘違いしています。それゆえに思考や価値観に関してはきわめてイノベーションが起こしにくい。ほかの分野のイノベーションの結果として、思考や価値観の革新が起こることはあっても、直接的に思考や価値観に革新を起こそうとするプロジェクトはどれもアジリティを欠いた状態に陥りやすく、いっこうに成果を生み出せません。
技術が思考や価値観に与える影響に無頓着な僕らは、過去の時代を振り返る際に、ある技術の登場によって生じた人間の思考や価値観の変化そのものを無視して、いまの思考や価値観を過去にも投影してしまい、まったく素っ頓狂な理解を過去に対して当てはめてしまいがちです。
その愚かな過ちを正すためには、いついかなる時代にどんな技術のインストールによって、僕らの思考に変化が生じたのかというバージョン管理をしていく必要があるのだけれど、ありとあらゆる分野で人はバージョン管理に悪戦苦闘しているのと同じように、このテーマにおいても同様のバージョン管理の失敗によって、不要な議論が繰り返されることになり、結果、先に述べたとおりアジリティが犠牲になっているわけです。
そろそろ、マクルーハンのメディア論的思考が当たり前になっていいと思うわけですが、なかなかそうはならないのは、やっぱり、そもそものところ、多くの人が自分たちの「思考」というものについて深く考えないからなんでしょうね。自分たちにインストールされた「思考」というソフトウェアについて。
できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物
さて、そうした人間に対する新しい「思考」のソフトウェアがインストールされた時代の1つとして19世紀の後半は興味深い時代です。その時代、多くの人の頭に群衆的思考というソフトウェアがインストールされました。その1800年代後半の、イギリスではちょうどヴィクトリア女王が王位についていた、所謂イギリスの黄金時代ともいえる時期に、どんな人間の思考の変化が起こっていたかを、小説や絵画などの芸術分野における変化を論述することを通じて教えてくれるのが、このピーター・コンラッドの『ヴィクトリア朝の宝部屋』という本です。
「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」や「木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり」といった最近の記事で、すでにこの本の内容を紹介してきましたが、とにかく19世紀後半のこの時代、「宝部屋」といえば聞こえはいいものの、とにかく雑多なものを小説や絵画などの作品に詰め込むだけ詰め込んで、全体としての収拾がつかない状態をつくることを好む傾向が生まれました。
どうして、そんな方向性が生まれたか、ということを考えると、それこそ、テレビの画面が横に広がった影響でAKB48やEXILEのような大所帯グループが増えたこととの相関を感じたりして面白い。
「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
例えば、本の中でも紹介されているラファエル前派の画家フォード・マドックス・ブラウンの下の「労働」のような作品のように、その時代の「現代生活」をテーマにしながら、それを当時の美術評論家ジョン・ラスキンの「自然をありのままに再現すべき」という考えにも影響を受けながら、病的なまでに細部にこだわって表現を行う傾向がみられたのでした。
▲フォード・マドックス・ブラウン「労働」
そして、そのぎゅうぎゅう詰めにディテールを詰め込んだ全体において、何が起こるか?というと、同じマドックス・ブラウンの下の作品のように、女性のマントのなかの手を握っているのはいったい誰なのか?という矛盾が平気で起こったりするのです。
▲フォード・マドックス・ブラウン「イギリスの見納め」
うまく配置されているというより、額の中にぎゅうぎゅう詰め込まれている
細部の宝庫ではあるが、誰のものかわからない手を画面に紛れ込ませてしまうほど、全体に対しては無頓着な思考。そうした思考が生まれたのが、19世紀の後半というわけです。このブラウンの「イギリスの見納め」という絵について著者は、こんな風に書いています。
すこし長いですが、引用しておきます。
ある種のぎこちなさによって、あえて注目を集める、この奮闘と尽力の感覚は、マドックス・ブラウンにおいても目につく。マドックス・ブラウンは職人的慎重さと誠実な力を求めて、古典的な美の基準を捨て去るのである。たとえば「イギリスの見おさめ」の題材は、うまく配置されているというより、額の中にぎゅうぎゅう詰め込まれている。額は長円形なのに、ブラウンは優美な曲線によって人物を円形画に合わせようとはしないのである。構図にはここちよい円環性は見られず、絵は遠慮なく額に抵抗し、それを突き破ろうとしている。その混乱ぶり、物語と教訓的細部を限られた空間の中に押し込めようとする切迫感、壊血病予防のために手摺に下げられた野菜、無秩序な移住者たちのいくつもの群れが、さまざまな謎を投げかけ、中心にいるトマス・ウールナーとその妻との込み入った複雑な位置関係を告げているー夫妻が腰掛けているものは何か、あの大きな傘はどのように支えられているのか、母親の開いたケープの前で握られているのは誰の手か、握られた手の持ち主はどこにいるのか、夫妻は背後の狭い画面に押し込められている人びととどのような関係にあるのか、そしてとりわけ、あの救命艇に乗っているのは誰なのか。妻の恨めしげな顔と、怒りと嘆きを押し殺した夫の顔の、その2つの顔は、画面の静かな中心となっているけれども、それも、周辺の副次的細部の騒々しさによって否定されてしまう。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
「木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり」という記事でも書きましたが、この時代の芸術作品は絵画にしても文学にしても、執拗なまでにディテールにこだわった部分がたがいに主張しあいながら、無理やり物理的制約としてのフレームに押し込められ、全体のメッセージを混乱させています。
様々な要素が自己主張をし続け、全体としてはほとんど何も言っていないような全体が生まれる。
まとまった主張に失敗した、単にできそこないの作品と見てしまえばそれまでですが、彼らがその際、見ようとしていた都市や大衆社会というもの、そして、彼らがそれを「ありのまま」描き出そうという写実主義、自然主義の芸術家であったことを考慮すれば、それは果たして失敗といえるのか? ありのままという意味においては、都市も大衆社会も、個々が周囲のことなど気にせず行動し、それゆえに全体としての統一感を欠いた状況を生み出すものの典型なのですから。
彼は自分について語るほうを好んで、ぐずぐずする
著者は、ヴィクトリア朝期においては、文学は詩や演劇から、小説へと向かったことを指摘しています。そして、その小説としての特徴としての最たるものが、やはり、ディテールへの偏向だったことを紹介してくれます。そのディテール偏向は、文章のなかの過剰なまでのディテールの記述としても浮かび上がってくるし、登場人物の極端なまでに強調された個性=キャラクターにも反映されているといいます。
そして、過度なディテール偏向が作品から全体性を奪ったのと同様に、個性的な登場人物はその個性が際立てば全体を混乱させる存在となるのです。
ロマン派の作家たちは演劇を小説へと変えたが、その小説は『指輪と本』の中において、劇的独白の連続へと変えられることになる。おそらくはこのような個性の追求のために、19世紀の文学は全体から離れて細部へと向かい、規範的な美の基準から離れて無限に多様な醜悪さへと向かうのだろう。というのも、醜悪さこそ個性の原理となるからでありーわれわれは美の理想からの隔たりによって、個人となるからだ。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
細部へと向かう文学は、全体的な統一美を失い、醜悪化する。著者はその醜悪さにこそ、個性の原理であることを見抜いています。
昨日の「デザインの体幹 Vol1&2 のスライドをシェア」という記事でもシェアした、僕がいまやっているトークイベント「デザインの体幹」の「Vol.2 物語編集力」の下記のスライドの12-13枚目あたりで、日本においても、西ヨーロッパにおいても、15世紀あたりに文化が民衆化・世俗化していく変化が起きていることを指摘しています。
Vol2物語編集 from Hiroki Tanahashi
それがどのような変化であったかといえば、日本であればそれまで正統とされていた中国文化からの離脱、西ヨーロッパであれば1000年続いた中世において社会における正統な権力であった教皇体制のキリスト教社会からの離脱という形で、それぞれ民衆化や世俗化が起こっています。つまり、正統から離脱した新たなまがい物、偽物が次の正統になるべく登場したわけです。
そうした"従来の正統"に対する"新しいまがい物・偽物"の誕生、19世紀後半におきたそれが、写実主義や自然主義の芸術家たちがその作品に描き出した「大衆としての個性をもった個人」だったといえるでしょう。
そう。個人というものは最初、"まがい物・偽物"として生まれ、正統としての全体としての秩序を邪魔するものとして、いまも存在しているのだと考えるといいんだと思います。
小説とは内省のための手段であり、『ハムレット』が特筆されるのも、この劇においては独白が筋をとどこおらせるからであるーあらゆる機会がハムレットを告発し、筋の中で彼に割り当てられた劇的運命や復讐者の役割が彼をせき立てても、彼は自分について語るほうを好んで、ぐずぐずする。彼は演劇よりも、むしろ小説に登場したがっているのだ。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
ハムレットを先祖にもつ個性あふれる個人としての僕たちは、19世紀ヴィクトリア期に小説の登場人物として生み出されたまがい物だったのです。
あまりにも気ままな連想に富み、無秩序で、滑稽な竜頭蛇尾に終わりがち
さて、そんな全体を欠いて、勝手気ままなことばかりしてきた僕ら個性あふれる個人たちですが、どうやら、その傾向に終止符を打たせられているのかな?と思うのも現代の"つながりすぎた"社会の流れだったりするのかなとも感じます。勝手気儘に醜悪なことばかりをしていた個人である僕らは、いまやソーシャルな見えない何かにつなぎとめられ、たがいに大きなエコシステムであるかのようにネットワーキングされ、バラバラにぎゅうぎゅう詰めになった状態でいることもできなくなり、常にまわりからやかましく"Good"であることや"全体としてサステナブルなエコシステム"であることを強いられるようになってきています。
オーガスタス・レオポルド・エッグ「過去と現在Ⅰ」(1858年)
オーガスタス・レオポルド・エッグが「過去と現在」という連作で描いたような、個性あふれる人々のその個性ゆえの全体性からの転落の残酷かつ悲惨な物語は、いまも現実にはどこかで起こっていても、それは芸術作品の題材とはならずに、糾弾すべき事柄としてニュースやネット上の批判としてのみ人々の目の前に現れるようになっています。
ヴィクトリア朝期に「公の場から私の場へ」と向かった芸術は、いままた逆方向に「私の場から公の場へ」とシフトしています。
荘重体は、英雄の行動や、公の偉業を記念する。だが現代の文学は公の場から私の場へと向かい、公衆の目の前で送られる生活という古典的理想(そこでは私的生活の静穏を好むのは愚か者だけである)から、自己陶酔へと向かい、自己の内側にこもり、家庭に閉じこもるようになってきた。つまり、行動の賞揚から、意識の探求へと向かったのだ。行動は荘重であるかもしれないし、叙事詩の中での偉業には、それを不滅のものにするだけの成就された完全さと武勇が備わっているかもしれない。だが、意識は決して荘重なものとはなりえない-それは、ロレンス・スターンが最初に気づいたように、あまりにも気ままな連想に富み、無秩序で、滑稽な竜頭蛇尾に終わりがちである。ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
「公衆の目の前で送られる生活」から「自己陶酔」「家庭に閉じこもる生活」へ。あるいは、「行動の賞揚」から「意識の探求」へというヴィクトリア朝期の発明は、いまやそれが発明だったことも忘れられたまま、ふたたび、自己や家庭など私的に閉じこもった状態から社会的にオープンな方向を目指す風潮だったり、頭で考えることよりも具体的なアクションを賞賛する傾向へと向かっています。
もちろん、その風潮や傾向自体には、僕自身、ポジティブであるものの、それがかつて19世紀後半に発明されたものの破壊であることを意識もせずに行われることには異議をもたざるをえません。
そして、何より「あまりにも気ままな連想に富み、無秩序で、滑稽な竜頭蛇尾に終わりがち」な"個性"という発明品はそれ自体、とっても愛おしく魅力的なものだと僕はいまも思うから。
そんなことをちゃんと考えるきっかけを与えてくれたという意味でも、この1冊は僕にとって貴重な1冊でした。
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