そもそも、ここ数年、プライベートで視覚文化と人間の知的活動や思考の関わりに関する歴史に興味をもって、いろいろ本を読んだり調べてみたりしたんですが、そこにたまたま仕事でもそうしたテーマに関わる機会が増えてきているので、結構楽しんでいます。
"L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルによって1887年に建てられたボン・マルシェ Au Bon Marché (vue générale - gravure)" by 不明 - fonds Boucicaut. Licensed under CC0 via ウィキメディア・コモンズ.
そんな僕がいま興味をもっているのが19世紀のヨーロッパ。
19世紀の半ばって、ある意味、それまで17-18世紀をかけて積み重ねられてきたヨーロッパにおける「視ること=分かること」というプロジェクトが、1つ別の段階にシフトするタイミングなんですね。
集めて、並べて、視覚的に意味を生成するという実験が次の段階に入って、集めて、並べることで経済活動を生み出す段階に入ったのが19世紀の半ばくらいなんです。
産業革命もだいぶ進んで、とにかく効率よく生産したものを、より効率的に売らなくてはいけなくなった時代です。そこで「集めて、並べて、視覚的に意味を生成する」というそれまでの実験が、ビジネスに結びついていくんですね。
例えば、その1つの象徴的な例が現在もパリにある百貨店ボン・マルシェの登場です。
ボン・マルシェ:百貨店システムの確立
世界最古の百貨店といわれるボン・マルシェがいまにつながる百貨店のシステムを確立したのは1852年。19世紀半ば、いまから160年ほど前のことです。古いと言えば古いですし、意外と新しいものなんだなとも感じます。
ボン・マルシェがはじめた百貨店システムというのは、例えば、バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけて定価販売することなどです。返品を認めるなども、この頃からはじめています。このあたりの仕組みはいまの百貨店にもそのまま引き継がれていますよね。
特にショーウィンドウやショーケース、いまではそれに加えて、デジタルサイネージやオンラインショッピングと連動したO2O的な施策も含めて、「集めて、並べて、見せる」ことで欲望を刺激して買ってもらえるようにするという仕掛けはいまなお視覚的な表現や技術には工夫を加えながらも続いています。そして、そこにバーゲンやタイムセールのように価格を時間や時期に応じて動かしていくというもう1つのマジックが加わります。
"現在のボン・マルシェ Bon marché" by Arnaud Malon from Paris, France - 00017.jpg. Licensed under CC 表示 2.0 via ウィキメディア・コモンズ.
ボン・マルシェがはじめたこの派手なショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む手法は、パリ万国博覧会を参考にしたと言われています。
パリの万国博覧会は、1855年を最初に、1867年、78年、89年と19世紀だけでも4回開かれています。これはボン・マルシェが百貨店システムを確立した1852年という先の数字と比べると、そっちのほうがあとということになる。だから、実はパリ万博以前に「集めて、並べて、見せる」ことで買ってもらうという仕組みを思いつくためのリファラーが別になったことになる。それはあとであらためて紹介しますが、その仕組みを洗練していくという点では複数回開催されたパリ万博が大きなベストプラクティスをもたらしたというのは事実なのでしょう。
そうした仕組みの洗練に合わせるように、創業から徐々に品数を増やしていったボン・マルシェは、1887年には、ギュスターヴ・エッフェルとL. A. ボワローによって店舗を拡張しています。このギュスターヴ・エッフェルは、エッフェル塔のエッフェルです。
水晶宮:工業生産品の巨大なショーケース
さて、ボンマルシェが百貨店システムをはじめたちょうど1年前、そして、最初のパリ万博から4年前である1851年に、鉄骨とガラスで作られた巨大な建造物である「水晶宮」で知られる世界最初の万国博覧会であるロンドン万博が開かれています。ショーケースのはじまりという意味では、このロンドン万博が先行しているといえます。
"1851年のロンドン万博での水晶宮 Crystal Palace". Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公を中心に開催が推進されたこのロンドン万博(正式名「万国産業製作品大博覧会」)は、当時世界の工場として繁栄していたイギリスの圧倒的な工業力を世界に知らしめることを目的としたものでした。
鉱物・化学薬品などの原料部門、機械・土木などの機械部門、ガラス・陶器などの製品部門、美術部門の4分類に出品物を分けて展示。中でも最大の目玉だったのが展示会場として建てられた鉄骨とガラスで作られた巨大な建造物・水晶宮 Crystal Place そのものでした。
その水晶宮に141日間の会期中、34の参加国、延べ約604万人の入場者を集めたロンドン万博は、興行的にも大きな収益を上げ、大成功に終わりました。
"水晶宮での展示風景 Crystal Palace - interior" by J. McNeven - collections.vam.ac.uk. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
この19世紀半ばの水晶宮こそ、工業製品のショールームの先駆けだったといえます。ボン・マルシェがリファラーとしたのも、水晶宮を中心としたロンドン万博だったはずです。
まさに、最先端の工業製品を陳列してパブリックに見せることで欲求を喚起するというマーケティング手法が確立したのがこの時期だとも言えます。実際、水晶宮同様に、工業商品を並べてみせて売る場として、ロンドン万博の翌年に、世界初の百貨店であるパリのボン・マルシェが生まれたのもある意味必然だったのでしょう。それほど、売るものは効率的に作ることができる時代になっていたのですから、課題は、それをどう効率的に売れるようにするか?ということだったはずです。
こうした物品や資料などを集めて一般公開する催し、国際的な万博に先立つ国内博覧会は、1798年、フランス革命期のパリで開催されています。1849年までにパリで11回にわたって開催された後、国際化しようという企画から51年のロンドン万博につながってるわけです。それは産業革命の成果が定着した19世紀半ばの必然的な変化でした。
先行する事例としてのルーブル博物館や大英博物館
物品や資料などを集めて一般公開するという意味では、最初のパリ国内での博覧会に先立つ形で、ルーヴル美術館が1793年に開館しています。
"Le musée du Louvre (4750261198)" by dalbera from Paris, France - Le musée du Louvre
Uploaded by russavia. Licensed under CC BY 2.0 via Wikimedia Commons.
この美術館に芸術作品を集めて、並べて、見せることで、何が生まれたかというと、ある意味、美術品の新しい意味が生まれたのだといえます。
その新しい意味とは何かといえば、その1つは美術史です。
ルーヴル美術館はその巨大な空間のなかで、様々な時代や地域の美術品を分類して展示しています。この分類して並べて見せるという行為自体が美術史そのものを見える化している。分かるようにしているのです。実際に作品を一定の規則で並べるからこそ、そこに規則というストーリー=意味が生じて美術史を語ることが可能になる。この時代に「集めて、並べて、見えるようにする」ことが、「分かること、知ること」に他ならないと考えられていたというのは、そういう意味です。
さらにパリという街全体で考えてみても、パリの美術館の配置・分類自体が美術史という物語を視覚化=現実化していることに気づきます。古代からはじまり、中世をのぞいて、ルネサンス期から古典主義時代くらいまでを包摂するルーブルを中心に、中世を扱うクリュニー、新古典主義から印象派をとおって象徴主義や世紀末芸術くらいを扱うオルセー、それとかぶるかたちで印象派とポスト印象派に焦点を絞ったオランジュリー、そして、現代美術を扱うポンピドゥー・センター。そんな具合に美術史が各美術館にふりわけられる形でレイアウトされている。まさに集めて並べることで意味=知を生み出している。
そういう壮大なプロジェクト=実験が、17-18世紀にかけて行われたということが、19世紀に「集めて、並べる」ことを売る仕組みに使えるようになった前提としてあったわけです。
"Italian paintings in the Louvre - Room 14 01" by Coyau / Wikimedia Commons. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.
では、ルーブル美術館は、並べるための美術品をどうやって集めたのか?
実はルーブル美術館が集めたわけではないのです。すでにそれは集められていたのです。
ルーブル美術館ができたのは、1792年にルイ16世が投獄され、ルーヴル宮殿に所蔵されていた王室美術コレクションが私有財産ではなく、国有財産となったことがきっかけです。つまり、それまで一般公開はされていなかった私有財産が、国有化されて公的なミュージアムになったわけです。
実は、私物のコレクションが国有化されてパブリックなミュージアムになるこの流れは、実はルーブル以前にいくつも前例があります。
その最古の例といえるのが、1753年に設立された大英博物館です。
"大英博物館 British Museum from NE 2" by Ham - 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
大英博物館のはじめの収蔵品も、実はイギリス人の医師で収集家であったハンス・スローンの私有物でした。
彼の死後、蔵書や手稿、版画、植物や動物の剥製、硬貨や印章、カメオなどの収集品が国に遺贈され、そのコレクションを元に大英博物館ができたわけです。
"ハンス・スローン(1660-1753) Sir Hans Sloane, an engraving from a portrait by T. Murray". Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
じゃあ、そもそも、なんで、そんな博物館がつくれるようなコレクションを当時の金持ちたちは持っていたのでしょうか?
驚異の部屋:知るためというよりも、分からないからとにかく集めておく
16世紀をはじめとして、17世紀、18世紀を中心に、裕福な層のあいだで「驚異の部屋」と呼ばれる、珍品・奇品を集めたコレクションルームをもつことが流行します。部屋といっても、先のハンス・スローンのように膨大なコレクションをもつ人になると、建物一軒まるまるコレクションになっている人もいました。
"Musei Wormiani Historia". Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
集められたのは上の絵のように、僕らからみると雑多なものです。
奇妙な形の貝や動物の剥製、めずらしい異国の硬貨や印章、カメオなどの工芸品や絵画などをいっしょくたにして集め、並べられてます。
では、当時の人々はなぜこうしたものを集めようとしたのでしょうか?
当時の世界は、大航海時代を経て、水平的にもどんどん広がり、天文学の発展により、垂直的にも広がっていた時代です。
つまり、自分たちのそれまでの知の体系におさまりきらない、様々なモノや情報がどんどん自分のまわりに侵入してきていた時代だったわけです。
想像してみてください。
自分のまわりに何だかわからないものがどんどん増えてきて、自分が生きる空間を満たしていく状態を…。
それがとても排除できないスピードで増えていくのだとしたら、あとの選択肢はまったくわからない野放しの状態から、せめて自分の管理下におさめて閉じ込めるくらいです。
当時の人々は、知るためというよりも、とにかく分からなくても手元で管理できている(風の)状態をつくりたかったのでしょう。
そう、捉えておくべきです。
理解できるからやるのではなく、分からなくてもとにかくやる。
それは現代のイノベーションが求められる社会環境にも通じる変化の時代の生きる知恵なのだと思います。
そうした何世紀か前のイノベーションの時代が産み出した空間が「驚異の部屋」でした。
そして、同じ頃、流行ったのが百科全書です。
"Anatomical chart, Cyclopaedia, 1728, volume 1, between pages 84 and 85" by イーフレイム・チェンバーズ『サイクロペディア』 - http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/HistSciTech/HistSciTech-idx?type=browse&scope=HISTSCITECH.CYCLOSUB. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
そう。百科全書。集めて、並べるという意味ではミュージアムにも似ている。百貨店にも似てるし、さらに大きくすれば万国博覧会にもつながりそうな、100だとか10,000だとか大きな数字を冠したもの。いまならメガなんとか、テラなんとかといったところでしょうか。
その百科全書の歴史のなかで、1728年に世界初のアルファベット順の百科全書として登場したのがイーフレイム・チェンバーズの『サイクロペディア』でした。
アルファベット順! つまり整理されて、知的に扱えるようになってるわけです。
1728年といえば、スローンの驚異の部屋が大英博物館に生まれ変わる1753年までもうすぐです。
わからないまま、雑多に保管した驚異の部屋の時代から、体系化することで意味を創出しようとした博物館へと移行する時代です。
高山宏さんは、『近代文化史入門』
大雑把にいうと、びっくりさせてくれるものをとにかくたくさん集めて、その物量で「どうだ、オレの方が偉い」などといっていた「驚異」の文化が、1753年に消滅したということである。そして、国家管理になったときに、王立協会の生物学者たちがそれを管理することになった。そう、「人が話す言葉はシンプル・イズ・ベスト」などといっている連中が、一角や二角のサイを扱うようになる「差異の世界」である。フーコーが「類似」の世界と呼んだ魔術的世界がここで終わる。高山宏『近代文化史入門』
ここで書いているボン・マルシェなどの話の多くは、この高山さんの『近代文化史入門』
とにかく、このとき、分からなくてもとにかく集めておくということをやっておいたおかげで、並べることで意味を生成するという技が生まれたわけです。
“見せる”場から“参加する”場へ
しかし、時代は移って現代。いまや企業が工業製品としてのモノだけを売る時代から、共創のなかで社会に新しいコトを生みだすパートナーとしてあることが重視される時代へと、価値提供のあり方も変化しているわけです。
そうなると、単に完成している商品を見てもらい、買ってもらうというショーケース的なあり方は成り立ちません。
大航海時代や天文学的な知によって、未知のモノが次々と自分たちの目の前にあらわれた時代でもなければ、産業革命によって新しく画期的な製品が次々と生活を変えるために提供された時代でもありません。むしろ、新しいモノが増えるという意味では、モノの増加よりも、見せる機会のほうがはるかに多くあるので、見せる装置としてのショーケース(それはテレビやオンラインショッピングサイトのようなものも含めて)自体の価値がどんどん低下しているといえるでしょう。
ショーケース的なビジネスの場、見せる空間というのは、変革を求められているのだといえるはずです。
完成された商品をそのまま買ってもらうという価値提供の形から、ビジネス課題や社会課題の解決に向けてのイノベーション的な解をいっしょに見つけて実現していく共創が価値としてより求められるいま、“見せる”場から“参加する”場へと、ビジネス的な空間のミッションは変わってきているのだろうと思います。
実際、いま流行っているお店、人が集まるお店というのは、単にモノを集めて並べて見せているだけのお店ではなく、その空間において、様々な人との出会いがあったり、その出会いから何か新しい物事が生まれてくるような、そういうネットワークをもったお店であるように思います。
そんな観点から”show”する場とは異なる、”experience”の提供を通じて、新たなものがそこから生まれてくる場のあり方というものが、いま様々な場所で行われている実験であり、現在の僕らが関わるプロジェクトなんだろうなと感じているわけです。
と、まあ、そんなことを今回考えてみたわけですが、今日、テーマにあげた19世紀というのは、このこと以外にもものすごく興味深い変化が起きている時代です。
ここしばらくはそんな19世紀をテーマにいろいろ書いていければと思っている次第です。
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