今日もそれがあって、僕も「僕が難読本を読む理由」というテーマで、ちょっとしたプレゼンをさせてもらったのですが、せっかくなので、そこでしゃべったことをブログ記事にしてしまうか、と。

上は、うちの本棚の一部ですが、ここに並んでいるあたりが僕のお気に入りの本。
まあ、なかなか人が読まない本ばかり読んでます。
左から5冊はバーバラ・スタフォードという18世紀の啓蒙の時代においてイメージが科学や教育に果たした役割を扱うのが抜群に上手な女性研究者の著作。そして、もう1人、僕がすごく影響を受けているフランセス・イエイツがという16ー17世紀のヨーロッパでネオプラトニズムやヘルメス主義のような魔術的思想がいかにしてその後の科学的思考を生みだすに至ったか?みたいな本がその横4冊くらいまで並びます。そして、このブログでもおなじみのワイリー・サイファーやM.H.ニコルソン、マリオ・プラーツなどの本が並んでる。このあたりがここ数年のお気に入り。
分厚い本が好き
こういう、ちょっとむずかしめの本を読んでいると、その後遺症として「ビジネス書が読めない」という事態に陥ります。なんで読めないのか?というと「簡易すぎると読めない」んです。自分でひっかかるひっかかるところがないのは、読んでてつらい。そして、逆に分厚い本が好き。

最近も『レンブラントの目』
その前に読んだのが、上の写真の一番下にある『パラドクシア・エピデミカ ― ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』
科学的思考が生まれる前夜のルネサンス期、ラブレー、ミルトン、シェイクスピアなどの文学史上の巨匠たちが「無限」や「無」「永遠」などのパラドキシカルな問題を考察する。それはルネサンス期だけあらわれた症候=エピデミカ。それが面白いし、なるほどって思ったりという変態的な読書をしてます。
好きなテーマは?
そんな本を読んでいますが、特に興味があるテーマは、イメージと思考や文化の関係。
朝話したマクルーハンの人間感覚の拡張(実はこの日の朝のミーティングでもマクルーハンの『メディア論』について話す機会がありました)にもつながる話しですが、印刷術以降に人間の思考や文化が具体的にどんな風に変化したか、その影響で生まれた物事にはどんなものがあるのか?に興味があります。グーテンベルク革命以降の社会の視覚偏重が人間の思考のスタイルや人間の文化をいかに変容させ、そして、その変容のなかで、どんな新しい視覚表現が生まれてきたのか。
その流れでいえば、庭や風景にも関心があって、これも印刷術以降、急に増えてきたものなんですね。

もちろん、風景自体ははじめからあるんだけど、風景だけを絵に描くなんてことをしはじめたのは、やっぱり印刷術以降。なんでだろ?って思うんですよね。
あと、記憶とかシンボルとか。それもおんなじつながりから興味がある。

活版印刷が生まれる前まで、ヨーロッパにおいては「記憶術」ってとても大事だった。本によって知識は物理的に蓄積可能になりましたが、それまでは知識を蓄えるには記憶に頼らざるを得なかったから。
記憶しやすくするため、詩のような韻文、歌がつくられた。シンボルもそれと同じような役割でした。
その状況が活版印刷の普及まで続いてく。
中世写本の時代の庶民のメディアは建築
その中世の写本の時代。本は非常に高価で、下の右のイラストみたいに鎖でつながれてた。それはヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』
とうぜん、ごく一部の人しか、本を読めなかったし、だから、識字率も低かった。
じゃあ、普通の庶民はどう知識を得たか?

文字を読めない人にとっては、キリスト教の教えを知るためのメディアは大聖堂などの建築でした。
そのため、ゴシック建築はたくさんの彫刻や、キリスト教の物語が表現されたステンドグラス、

そして、祭壇画などをまとった大聖堂が文字が読めない人にとっての記憶を定着するためのメディアとなり、多くの人が集まるミサでの音声による語りかけや歌声を通じて、キリスト教の知識を伝えていました。

そこにグーテンベルク革命で、印刷された聖書が登場します。

1445年、グーテンベルクは活版印刷技術の考案、実用化にいたります。

中世における知の装置であった大聖堂が、グーテンベルクの革命によって入手しやすくなった書物によって、その役割を取って代わられていく様をユゴーが描いています。
同じ/違う、真/偽、オリジナル/コピー
マクルーハンは、印刷本こそ、最初の大量生産品であるといってます。
本が大量生産品ということは、史上はじめて同じ本が複数あるという状況が生まれるわけです。
本だけじゃなく、これ以降の大量生産によって「同じ」という概念が重要になっていく。
本物/偽物とか、オリジナル/コピーみたいな話が出てきて、これが結局さっきのパラドックス的な話題が疫病のように流行るという話しにつながるんですね。
また、このあたりを緻密に研究しているのが、冒頭紹介したスタフォード女史の著作です。あえて、1冊だけ代表作をあげるなら『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
こんなことをいかにも難しい本を読みながら、考えてるわけですが、じゃあ、なんでそんな難しい本を読んでるか?

これに尽きます。
むずかしい状態から、わかる状態に移行するのが面白いんですね。
はじめからわかってることじゃなく、読みながら考えることでわかっていくのが楽しい。

結局、難しい本を読み解いていき、自分で「あっ、そうか!」を見つけていく思考作業って、KJ法をやってるのと同じなんですよね。
フィールドワークだの、インタビューだの、様々な調査で集めたバラバラのデータ群から、どんなインサイトを導きだすか? それって難読本から解釈を導きだすのとおんなじなんですね。
だから、これってかなりの思考訓練になるんですよ。日常的なトレーニング。
難読本に向かう4つの極意
というわけで、難読本に向かう4つの極意。もちろん、何を「難読本」と思うかは人それぞれなので、自分でちょっとむずかしいと思えるような本に立ち向かう場合に使えるはず。必ずしも僕が読んでいる本の場合にだけ使えるノウハウというのではないと思うんです。もうちょっと汎用性があるものだと僕は思ってます。
ということで、まずはこれ。

どんな本だろうが、とにかく自分に関係付けて読むようにするんです。
たとえば、僕はあらゆる本をデザインまたは思考の本としてしか読んでません。この強引さが大事。
本に書いてあることを、そのまま読むだけだと、やっぱり腹落ちはしないし、退屈。なので、自分の考えに関係づけて読み、そこからいろんな解釈を生むようにするといい。
はい。次。

むずかしい本であればあるほど、1つの本だけを集中して読もうとすると苦しかったりします。だから逃げ道をつくる。僕も常に3、4冊の本を同時に読み進めてます。
途中で読むのをやめてかなり期間を置いてから、また読みはじめることもあります。結局、そのほうが読めるんですよね。
で、そのことに関係するのが、次のこれ。

むずかしい本のどうにも解釈できない疑問の答えやヒントって、実はたいてい他の本に書いてあったりするんですよ。というか、この感覚を身につけることが、本当の意味で解釈力をあげる訓練だったりもします。比較することで、何かを解釈するという訓練。
最後はこれっす。

やっぱり考えたことしっかりと自分の言葉に変換すること。僕なら、まさにこのブログがその場。あとは最近だと前回の記事で紹介したイベント「デザインの深い森」で話しをするための準備をするとか。
これって反復訓練なので、やればやるほど、物事を解釈する力、編集する力がついてきます。
以上がざっとですが、僕が難読書を読む理由です。
ありがとうございました。
関連記事
- 人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…
- 読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル
- 文学というデザイン
- 思考の方法の2つのベクトル
- 文書の形式で知をカタチにすること
- 「考え方」について考えてみる
- 思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう