人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

前回の「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」という記事のなかでも告知していたイベント「デザインの深い森」。その第3回の講演を昨夜開催しました。
ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して行った講演は、keynoteのスライドにして105枚、しゃべった時間はあんまりはっきり憶えてないけど、2時間近かったんじゃないか、と。もちろん、最長講演時間の更新。質疑応答のときは声が出なくなりました。

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▲講演で使用したスライドのサムネイル(クリックして拡大すればもうすこし見える)

それこそ2時間も話したので、その内容を要約するのは、むずかしいんですが、
  • 17世紀中頃を境にした「見る」ことと「思考する」ことの関係の歴史的な変遷だとか
  • 似たような観点で「照らす」ことと「知る」ことの関係って?みたいなこととか
  • そんな内容をレンブラントとルーベンスという2人の画家を、偶像破壊のプロテスタントと五感全体を使ってキリスト教を体感させようとしたカトリックという視点で対置してみたり、
  • ルネサンス期のネオプラトニズムとヘルメス主義的魔術の融合がいかに戦火の時代の文化や思想、芸術に強い影響を与えたかだとか、
  • その流れのなかであらわれた薔薇十字団という秘密結社の盛衰が後に、ユニバーサル言語という観点から、いかにあいまいなものを消し去り、絵をロゴスに従属させるものに変えていったか、など。

そんなことを、のらりくらりと話してみましたわけです。

ネオプラトニズム:万物は一者から流出する

そんな講演の準備のために、あらためてネオプラトニズムについて以前に読んだ本を読み返していたのですが、調べて、そして、昨日、実際に話してみて、僕はあることに気づいたんです。

それが、この記事のタイトルにもした、

  人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

ということなんです。

順を追って説明するなら、やっぱり、それに思い至ったきっかけとなったネオプラトニズムから話をするのがよいか、と。

まず、ルネサンス期にネオプラトニズムが流行したのは、1453年の東ローマ帝国滅亡の前後に、多くのギリシア人の知識人がフィレンツェなどのイタリアの都市に亡命してきたことがきっかけです。人が流れ込んできただけでなく、それまで1000年を超える中世のあいだずっと西ヨーロッパからは失われていた古代ギリシアやローマの書物も持ち込まれたのです。プラトンの著作も含めて。

メディチ家の当主コジモもまた、1439年のフィレンツェ公会議の際、東ローマ帝国の哲学者が行ったプラトン講義をきっかけにプラトン哲学に関心をもった一人でした。コジモは1462年頃にフィレンツェ郊外にプラトン・アカデミーを創設して、古代のアカデミアに憧れる人文学者たちを集めます。
そして、コジモは東ローマ帝国から写本を入手し、1463年にネオプラトニズムの影響を強く受けたエジプトの文書「ヘルメス文書」を、1469年にプラトン全集を、アカデミーの中心人物であったマルシリオ・フィチーノに翻訳させています。
このフィッチーノと弟子ともいえるピコ・デラ・ミランドラがルネサンス期の文化にネオプラトニズムを広めたのです。ちなみに、ピコは非ユダヤ人ではじめてカバラを極めた人だと言われていますが、元のプラトンの思想にヘルメス=カバラの思想が混在したのがネオプラトニズムです。

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▲ネオプラトニズムをルネサンス期に復活させた立役者であるコジモ、フィチーノ、ミランドラ

ネオプラトニズムは文字通り、プラトンのイデア論を継承した思想で、もともとは紀元3世紀頃にプロティノスによって展開されたものです。
万物は一者から流出したものと捉える流出説を軸とするもので、初期キリスト教にも影響を与えたと言われています。
この万物を生みだす一者というのが、プラトンのイデアから派生したものなんですね。

イデアと芸術家

ただし、プラトンとプロティノスの思想には違いもあります。

以前、書評という形で紹介した『イデア―美と芸術の理論のために』という本のなかで、エルヴィン・パノフスキーは、こんな風に書いています。

プラトンにとって、芸術とは人間の内的な眼差しを感覚的な像に引きとどめ、イデア界を観照することを妨げるものであって、それゆえにこそ彼は芸術を断罪したのであった。他方プロティノスにとって、芸術は人間の内的な眼差しをいつも新たに感覚的な像のうえへとさまよいださせ、イデア界へと視野を開きながらも、同時にそれを覆い隠してしまうという悲劇的な運命をもつものであり、それゆえに彼は芸術に有罪を宣告するのである。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

ともに、芸術に対して否定的な見方をしているという点では共通していますが、プラトンがイデアに向かう眼を妨げるものとして芸術を断罪するのに対して、プロティノスのほうは芸術がイデアに眼を向けさせる呼び水にいったんはなり得る性質があることを認めているのです。

この古代におけるイデアと芸術の関係は、プラトンそのものが直接は失われてしまった中世のヨーロッパにおいては、さらに変化します。

いまだ活版印刷による革命が起こる前の、音声主体の中世文化においては、キリスト教の世界観を伝え理解するためのメディアとして、教会の壁面やその空間に絵画や彫刻などの芸術作品として物理的な実体をもった芸術的表現が用いられるようになります。
絵画や彫刻は、宗教的・倫理的訓練の一環として美徳や悪徳、天国や地獄を表わすイメージとして制作され、芸術家は、本来神の思惟であるイデアを神秘的な直視により捉える能力をもったものと見做され、その芸術家の直視したイデアは神のイデアの模倣とした準イデアであると考えられるようになります。

とはいえ、芸術は神のイデアを最も近い形で模倣できるものとしてのみ、評価されるのであって、現在のように芸術そのものが他から独立した形で、その創造性を評価されることはなかったのです。

ネオプラトニズムの影響の下で…

芸術の独立した創造性は、中世も終わりを告げ、ルネサンス期を迎えても、いまだすぐには現れませんでした。

初期ルネサンスでは芸術家はあくまで自然をいかに観察し模倣するかというところに留まっていました。そこに古典古代の数学的発想からの発明品である遠近法を用いた変化があっただけで、芸術とは何か?という視点が大きく変わったわけではありませんでした。

初期ルネサンスでは、主観も客観も超えた法則性が存在すると信じられていた。その法則性は、いわばより高次の秩序に属するものとして形象化の過程を律しうるように思われていたが、その法則性を無条件に認めることは、自由に創意を凝らす芸術家の創造という考え方とは根本的に矛盾するものであった。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

この主観も客観も超えた法則こそ、神であり、絶対的な存在としてのイデアでした。つまり、芸術はあくまでこの法則に準ずるもの、ようするに「万物は一者から流出する」という場合のその一者にあくまで従う形で万物は生まれてくるという意識を依然としてもっていたのです。

しかし、その見方に変化が訪れるきっかけをつくったものも、やはり「ネオプラトニズム」であり、それを発展させたルネサンス期の思想でした。

フィチーノやピコのネオプラトニズムやヘルメス主義を継いた人たちの1人にジョルダーノ・ブルーノがいます。
ブルーノは、それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張するなど、独自の宇宙論を展開。コペルニクスの地動説を擁護したため、異端判決を受け、火刑にされたルネサンス思想家です。

また、ブルーノは、ルネサンス期の記憶術の大成者としても知られます。
活版印刷による書物が市場で普及するまでのヨーロッパにおいて、記憶術は学術・思想を支える何より重要な技術でした。文字を記述した本を用意に入手したり所持したりが困難である以上、言葉をアーカイブする手段として記憶の重要性は驚くほど高かったからです。
ブルーノは、スコラ哲学の解釈をくぐった古典的な記憶術に加え、ヘルメス=カバラ主義や、13世紀のライムンドゥス・ルルスが考案したルルスの術を統合した形で新たな記憶術をまとめました。

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▲ルルスやブルーノの記憶術のためのアルス・コンビナトリア的ツール

ブルーノにとって記憶術のための魔術と、宇宙を考えるための魔術はつながっていました。そして、そのいずれもが数学的思考ともつながっていたのです。ブルーノの時代、魔術的に考えることと数学的に思考することのあいだに違いはありませんでした。

宇宙が魔術によって動かされているという、ルネサンス期の有霊観的宇宙論は、宇宙が数学によって動かされているという、機械観的宇宙論に至る道を準備した。ブルーノの無限の諸世界という有霊観的宇宙にも、同じような魔術=機械観的法則が浸透しており、その意味で、彼の宇宙論は17世紀の宇宙論を魔術的に表現した、ひとつの予表といえる。
フランセス・A・イエイツ『記憶術』

このブルーノの思想が後期ルネサンスの思想や芸術に強い影響を与えていきます。

そして、芸術家は、あらゆる規則全般の創始者となる…

グスタフ・ルネ・ホッケは、この魔術的なヘルメス主義やネオプラトニズムの影響によるイデアと芸術の関係の変化を以下のように描いています。

魔術的な自然教説と関聯したこの〈ネオプラトニズム〉は、このように主体の、とりわけ〈主観主義的な〉芸術家の、一種の〈神格化〉へとみちびかれるのである。すでにヴァザーリにとって、イデアは芸術家の表象能力の同義語となっている。とはいえ、ヴァザールの場合、イデア—観念はなお自然—依存の域にとどまっている。16世紀の後半にしてはじめて、芸術家は、あらゆる規則全般の創始者となる。

この「芸術家は、あらゆる規則全般の創始者となる」といった人こそ、ブルーノでした。
万物を生みだす一者にただ従うものと考えられていたところから、一気に「規則全般の創始者」というポジションに変わります。そして、このとき、人間自身が「創造」が可能な生き物だという認識がはじめて生まれたのです。

16世紀と17世紀の言い方では、イデアは「可知的対象の完全な認識」と呼ばれることになるが、そうしたものを自分自身の力で手に入れることこそが、芸術家の権利でもあれば、また義務でもあるのである。芸術家のみが規則の創造者なのであり、真の規則というものは、およそ真の芸術家が存在するかぎりにおいて、そしてその数だけ存在するという、ほとんどカントを思わせるようなジョルダーノ・ブルーノの発言は、イデア論と関係づけることによってのみ十分に理解されるだろう。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

と、パノフスキーが書いているように、ブルーノの芸術家観は、1世紀半もあとの思想家カントの考えを先取りしたものでもあったのです。

神に、そして、自然に、従属していた芸術は、この時点ではじめて自由な創造をする技術として認められるんですね。

パノフスキーによれば、16世紀には、プラトン的イデアが世俗化される。すなわち、ある〈人間的な〉能力となるのである。ひとつの芸術作品は、芸術家のあるイデアの所産であって、自然の模倣ではない。

こういう意味で、僕は、

 人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

と思ったんです。

ディセーニョ・インテルノ、再び

そして、このブログでは何度も書いてきたマニエリスムの画家・理論家であるツッカーリが1607年に「絵画、彫刻、建築のイデア」で提示した概念「ディセーニョ・インテルノ diségno interno」に目を向けるとよいでしょう。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。

このツッカーリのいう「ディセーニョ・インテルノ 内的構図」をまさに描いた絵だと僕が思う絵があります。

それがこの若き日のレンブラントの自画像でもある「アトリエの画家」です。

アトリエの画家.png
▲レンブラント『アトリエの画家』(1628)

ひび割れ、はげ落ちた漆喰の壁。床板のざらざらした感じ、扉の金属部分の古びた様子、なぜか仕事場でめかしこんでいる画家自身の青い衣装。単なるスケッチや練習のための絵というのには不自然なほど、様々な芸を凝らした絵。
この絵を『レンブラントの目』の著者サイモン・シャーマは客向けの売り込み用の名刺のようなものだっただろうと指摘しています。

中央にあるのは実際の絵そのものとは不釣り合いな大きなパネル。つまり画中画ではないことがわかります。
鏡の中の自分を描いた絵ではなく、自分の心の中を描いた絵。in-sightを描いた絵。そう。まさにツッカーリのディセーニョ・インテルノ(内的構図)という言葉が思い浮かびませんか?

その証拠といっていいでしょうか。
拡大してみると、画家の目が黒い節穴であることに気づきます。

拡大.png

この時代、絵を学ぶ際、一番最初に習わされたのは目を描くことだったそうです。とうぜん、レンブラントもそこからはじめたはずですから、漆喰や衣装をこれほどリアルに描けたレンブラントがまともに目が描けなかったはずがないのです。つまり、節穴のように描いたのには理由があった。きっと内面を描いた絵だから外の世界は見ていなかった、そう考えることができるのではないかと僕は思います。

内にあるものを見て、それを芸と技をつかって外界に投影する。ヴィレム・フルッサーにまさに『サブジェクトからプロジェクトへ』という本がありますが、人は神や自然のサブジェクトだった状態から、自らの創造的なヴィジョンを世界に向かってプロジェクションしていく存在に変化したのです。デザインというものを考える場合に、僕がこの時代に注目しているのも、そこに理由があります。

そういう創造的な行為を人間自身が理解したのが、まさにこの時代だったんだと僕は考えます。
「デザインの深い森」というイベントで、僕が話しつつ、考えているのはまさにそういうことだったりします。

   

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