デザインという思考の型から逃れる術があるのか?

最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。
しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。

昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、本当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を本当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。

僕らはみな、デザイン力がないのではなく、むしろ、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ、と。


▲イベント「デザインの深い森」の第3回の内容を構想中

そんな風に考えるようになったのは、いま僕は千葉工業大学の山崎先生といっしょに月1でやっているトークイベント「デザインの深い森」の企画を考えはじめたときでした。第1回目で僕が話した内容は、1つ前の記事でもプレゼンスライド付きで紹介しています(ちなみに次回以降はスライド公開予定はないので、内容に興味のある方はぜひ参加してくださいね)。

このイベントは全6回のシリーズで僕と山崎先生が交互に講師役をつとめる形で進めているんですが、イベントを企画したきっかけは、昨今のデザインをめぐる言説の多くが方法論や事例紹介みたいなものに偏りがちだけど、本当の意味でよいデザインをするために必要な「デザインの体幹」みたいなものって何だろうね?ということを考えはじめたところにあります。

デザインの体幹と表現したデザインの基礎みたいなことを山崎先生とディスカッションしたりする中で、僕のなかで思い浮かんだことが先に書いたような「僕らはみな、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ」という結論でした。つまり、基礎は何か?を考える際、ある特定の人だけがもっている力を想定するのが間違いで、むしろ誰もがみなその方法で思考しているために却って、それが方法であることが認識されない、その隠れた方法こそが、デザインというものの核だろうと思い当たったのです。

17世紀中盤を境にした人間の思考の変化のBefore/Afterを並べてみせ、何がどう変化したかに光を当てる

そんな考えから、今回のトークセッション・シリーズ「デザインの深い森」で、僕は一貫して、
  • デザインとは現代を生きる万人にとって思考全般の問題である
  • デザインとはスキルを身につける類いのものというよりも、身体や頭にしみ込みすぎてしまい、もはやそれを使用していることすら意識していない類いのものである
  • それゆえ、いかに自分たちがデザインという思考にがんじがらめとなっているかを認識しなおし、無意識に用いてしまっているデザイン的な思考から脱却するために、デザインという思考法を意識的に用いることができるようにする必要がある

といったスタンスから、主に17世紀以降の歴史を振り返りながら、デザイン的思考における大きな変換点である17世紀中盤を境にした人間の思考の変化のBefore/Afterを「並べてみせ」、何がどう変化したかに「光を当てる」トピックを紹介しています。

「魔王のテーブルのうえで」と題した第1回では、まさに「並べてみせる」=レイアウトする/整理するというデザイン的なアプローチが「分かる」ということにどう影響を与えているかを話しました。

たとえば遠近法や解剖学といった当時における先端的な視覚的イリュージョンが人々のものの見方に大きな変化を与えたこと、


▲ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』(1656)


▲アンドレアス・ヴェサリウス『人体の構造』(1543)より

あるいは、驚異の部屋や百科全書を中心とした博物学の流行が、


▲オレ・ウォルムの「驚異の部屋」


▲イーフレイム・チェンバーズ『サイクロペディア』(1728)

やがては博物館や美術館を生んだり、それと同時に、博物学的な物事の分類の仕方自体や美術史という歴史そのものも博物館や美術館のなかでの陳列品や作品の配列と同時に生みだしたり、


▲大英博物館(1753年設立)

さらにはリンネにはじまる近代分類学という科学的な知を生みだすことにもつながるし、万国博覧会や百貨店にもつながっていく、


▲カール・フォン・リンネ『Systema Naturae』(1735)


▲1887年のボン・マルシェ

そんな視覚的イリュージョンを駆使して、世界の見方を整え、理解を促そうという思考のあり方、つまりデザインという思考のあり方が浸透しはじめた大きな変化のはじまりを17世紀中頃に見たわけです。

つまり、集めた要素を絵画という平面上に、あるいは、プラン(平面図)という設計によって構成された建築物や街という空間に、さらにはテーブル(タブロー、表)という形式で分類された学術的な図版のなかに、ある視覚的な規則によって並べてみせることで、ある意味を生成する作業。

テーブル(タブロー)という点では、ミシェル・フーコーのこんな言葉も思い出しておきたいところです(そして、フーコーがこの言葉を書いた『言葉と物』が扱ったのも問題の17世紀における言葉と物の断絶だった!)。

シナの百科事典の列挙に導きの糸として役立つかに見える、われわれのアルファベットのabcの系列によって隠されているのは、一言でいえば、かの有名な「手術台(ターブル・ドペラシヨン)」にほかならない。わたしはここで、些少ではあるが、これまでの借りをルーセルに返済することにして、「台(ターブル)」という語を二重の意味で使っているのである。すなわち、まず、影をむさぼり食う太陽のしたできらめく、純白に塗られた弾力あるニッケル・メッキの台-それこそ、その上で、ひととき、いや、おそらくは永遠に、こうもり傘がミシンと出会う場所だ。そしてもうひとつ、秩序づけ、分類、それぞれの相似と相違を名による区わけ、諸存在にたいするこのような操作(オペラシヨン)を思考にゆるす表(タブロー)-それこそ、言語が、開闢以来、空間と交叉しあうところである。

まさにそうしたデザインと呼んでいい作業を行うことで、僕らは歴史を文章にしてみせたり、博物館や美術館の展示としてあらわしたり、まさに年表というテーブルとして表現することで歴史という意味を生成できるようになりました。もちろん、それによって生成されたのは歴史だけでなく、科学的な思考の方法もそうだし、経済・契約といった考え方もそこから今につながっている。

視覚的なレイアウトにより、意味を生成する(つまり「分かる」ようにする)という視点からデザインの起源への遡行を行ったのが第1回でした。


▲「デザインの深い森」で話す内容を考えるのに、大いに参考にしている本の一部

そんな風に「並べてみせる」というデザイン的な思考の特徴の1つにフォーカスしたのが第1回なら、まさに第3回は「光を当てる」という物事の見方、ようするに何かにフォーカスするというまた別のデザイン的な思考の特徴が僕らの思考に何を可能にし、逆にどのような制約を設けているかについて話をしようと思っています。

例えば、こんなロザリー・コリーの言葉は、3回目に話すことの予告になるかもしれません。

うつろな空間などない。それは目に見えるものに満てる。
すべては魂と命、絢るき目はこの上なく、
すべては光と愛…。

トラハーンは後に、無限空間とは「神の感覚」としたアイザック・ニュートンに代表される英国の公式の空間理論に支持されるはずである。

「見る」ことが「知る」こととイコールでつながれたのがまさに17世紀半ば、デザイン的思考が世界を席巻しはじめた記念碑的な瞬間でした。
そして、蒙(くら)きを啓(ひら)く啓蒙の時代へ。まさに明かりをあてることで未知を知に変えた気になる時代。それが同時にピクチェレスクという絵画狂いの時代だったのも決して偶然ではありません。

そんな風に、何かにスポットライトをあてたり、絵画のようにフレームのなかに世界を閉じ込めたりというデザイン的な抽象化の作業が、いかに僕らの「思考」のフレームワークとして働いているか(逆にいえば、いかにそのフレームに僕らの思考は欺かれているか」)という観点から、お話する予定です。

デザインの深い森 Vol.3「ウロボロスの洞窟と光の魔術師」参加者募集中

イベント「デザインの深い森」の予定に関しては、1回目は9月25日に僕が講師の形で、2回目は山崎先生が担当で10月30日に実施済。
という流れのなか、上に書いたような内容をお話する次の3回目は11月27日(木)の19:30から渋谷のロフトワークの10Fで行う予定です。題して「ウロボロスの洞窟と光の魔術師」。

参加したい方は、OpenCU「デザインの深い森〜山ちゃんと棚てぃーのデザイン論〜 Vol.3」の参加者募集ページで、参加表明を。
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第1回目はこのブログでスライド公開しましたけど、先にも書いたように次回の3回目以降はスライドを公開する予定はないので、内容に興味のある方は実際に参加してくださいね。

ちなみに、全6回の予定はこんな感じです。



ぜひ、ご参加いただけると嬉しいです。

   

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