まずは1つの前のエントリーで書評を書いたノーマンの『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』より。
物語には、形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を、的確に捉えてくれるすばらしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を、特定の文脈から切り離したり、主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は、文脈を捉え、感情を捉える。論理は一般化し、物語は特殊化する。論理を使えば、文脈に依存しない汎用的な結論を導き出すことができる。物語を使えば、個人的な視点で、その結論が関係者にどのようなインパクトを与えるか、理解できるのである。
これが1993年の論説。
で、一方、昨年話題になった、つまり、ノーマンから遅れること13年後にアメリカで大ベストセラーになった、ダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』より。
事実というのは、誰にでもアクセスできるようになると、一つひとつの事実の価値は低くなってしまうのだ。そこで、それらの事実を「文脈」に取り入れ、「感情的インパクト」を相手に与える能力が、ますます重要になってくるのだ。
そして、この「感情によって豊かになった文脈」こそ、物を語る能力の本質である。ダニエル・ピンク『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』
さらに、2005年の茂木さんの『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』より。
もはや、決まりきった情報処理を大量にこなす仕事は、コンピュータにやらせておけばよい。以前だったら大量のホワイトカラーが事務処理しなければいけなかった仕事が、今ではクリック1つで簡単にできるようになった。
その一方で、新しいものを生み出すこと、すでにあるものに新たな価値を付け加えることといった「創造性」の能力だけは。いくらコンピュータの計算速度が速くなり、インターネットなどの情報ネットワークが発達しても、人工機械には任せられない。それゆえに人間の創造性の価値が高まるのである。
今回は答えめいたことを書く気はまったくないのですが、まぁ、とにかくこういうことです。
とはいえ、人間中心のデザインは必要だと思いませんか?
いや、デザインでなくとも、人間をもう一度、捉えなおす機会のような気がしてますが、いかがでしょう?
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この記事へのコメント
nori
一言加えたいのは、論理と物語は対概念ではないという事です。論理という一般化の機能を持つレイヤーが下層に前提としてあり、そのレイヤーを下層に眺めつつ、ある文脈に沿ってどのトピックが特定の文脈にとって重要であるかを示す上層レイヤーが物語なのかなと考えます。
具体的な例をあげますと、本日「不都合な真実」という環境問題を扱った映画を見てきました。そこで取り上げられるたくさんの科学的実験・調査に基づいた真実、例えば二酸化炭素の排出量と世界の平均気温の相関性を記したグラフ。これは論理に基づいた一般的な真実です。論理のレイヤーでは、このグラフは世界中にある無数のグラフの一つに過ぎず、なにも語ってくれません。これを映画の視聴者にとって意味のあるものにしてくれるのが、人類の危機という物語かと思います。
映画監督や作家などの物語を紡ぐ事を生業としている人たちの仕事というのは、このそれだけでは何の意味を持たないように思える無数の科学的な真実や、日々日常的に起こりうる無数の些末な出来事から、その要素を、ある「コンセプト」に基づいて選択的に取り出し、受け手にとってインパクトとなりうる物語を作り上げるという事だと思います。
「文脈」に加えて私が注目していたのは「コンセプト」なんですが、その「コンセプト」の役割は、まさに上に記した通りだと思いますがいかがでしょうか?
tanahashi
長くなりそうなので、別途、エントリーを立てました。
http://gitanez.seesaa.net/article/41105554.html