われわれ人間は認知を助ける幅広い種類のモノを発明してきた。物理的なものもあれば心的なものもある。たとえば、紙や鉛筆、電卓やコンピュータは認知を助ける物理的アーティファクトである。読み書きのスキル、算術、論理、言語はメンタルなアーティファクトである。その威力が物理的なものの中にではなく、規則や構造、つまり、情報構造の中にあるからである。ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』
物理的アーティファクトとメンタルなアーティファクト。
当たり前だけど、前者は触れて、後者は触れない。これがひとつ大きな違いだと思ってます。
インフォメーション・アーキテクチャにおける図と地
で、そういう違いはあっても、ともにヒトという生物の認知や知識を広げるという意味で役に立ってる。でも、この違いをきちんと認識できていないから、アーティファクトをデザインする上で様々な障害が発生してしまっているんだと思う。
例えばね。インフォメーション・アーキテクチャ。
前から思ってるんだけど、これってどこまでインフォメーションで、どこがアーキテクチャの部分って話になるんじゃないかと思ってる。
図と地。どっかで地の部分がないと図は認識できない。
そして「地の部分がないと」って書いたけど、実は、地の部分は隠れてて認識されない。だから、地。
でも、認識されないのは情報じゃないかっていうと、どうなんだろ?って思う。
必要ないものは隠せ
それから、隠れてるってことはアーティファクトの使いやすさの1つの条件にもなってくる。例えば、テレビのすべての機能が隠れてなかったら、落ち着いてテレビを見ることなんてできない。
パソコンでも同じ。多くのものがユーザーインターフェースの裏側に隠れてるから、パソコンは使える。
いや、パソコンを使ってる感覚なんて普段はなくて、mixiやってるとか、powerpoint使ってって感覚が普通なんじゃないか。
いやいや、もっというと日記書いてるとか、プレゼン用の資料つくってるっていうのが実際の感覚かもしれない。
とにかく、アーティファクトにおいては必要最低限の以外の機能は隠れてるっていうのが使いやすさのミソ。
それがヘタなデザインだと必要のない機能までユーザーインターフェース上に表現されてるからややこしくなる。
インフォメーション・アーキテクチャってムズカシイ
で、インフォメーション・アーキテクチャに話を戻すと、図も地も実は両方とも情報だと思ってる。ただし、うまく隠せた情報が地となり、うまく目立たせた情報が図となる。
ヒトは地を知覚してないんじゃなくて、単に意識してない。知覚してても気づかない。そういう状態をいかに作り出せるかってこと。
んー、これってなんだろ? ムズカシイ問題だよね。
こんなこと考えはめたら、とても気軽な気持ちで、インフォメーション・アーキテクチャの教科書なんてかけないよね。
いや、書いてくれなんて誰にも頼まれてませんけど(笑)
グラフィカルな表現、数値による表現
あと、図のほうに関しても、表現が適切かどうかってのは、結構由々しき問題だと思ってます。ちょっと前に社内のある会議ででてきた資料のグラフのわかりにくさに唖然としたことがある。
棒グラフだったんだけど、この内容あらわすのにはこのグラフじゃないだろって思った。
グラフって文字通りグラフィカルに数的な量を比較できるようにする表現手段だと思うけど、そのグラフは何も視覚的な比較できない状態だったんです。
ほかにも表とグラフの使い分けがダメなケースって多い。
よくIR情報でいわれるのは素人向けにはグラフでぱっと見てわかるように、プロ向け(アナリスト向けってことね)には、自由にデータの分析ができるようにExcelで情報を提供しろってことが言われます。
それって普通のヒトは視覚でわかる情報のほうがわかりやすく、プロや機械は表形式の数値データのほうが扱いやすいってこと。
こういうのも含めて、インフォメーション・アーキテクチャというアーティファクトのデザインだと思ってる。
おっと、素早く思ってることだけ書こうという気で書いたけど、結構、メモれたな。
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