読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル

考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。
考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。
思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。



そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。

インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せるようになっても、はたまた、さまざまなコミュニティにおいて開かれた形での勉強会やセミナー、ワークショップなどで知を有するもの同士がその知をつなげて新たな価値をその場でつくりだせるような時代となっても、知識を思考につなげるという観点においては、いまなお書籍というメディアの果たす役割はほかの何かに劣るようにはなっていないと思っています。

特に個人の思考力を高めるという観点においては、これほど強力なメディアはいまだ他にはないでしょう。
最近、あらためて「独学力を鍛えることが大事!」と思っているのですが、この独学力があるかどうかって、読書をどれだけできるか、読書をどれだけ思考につなげられるかということのほかならないはずです。

学校で教えてもらうとか、複数人が集まる勉強会の場で学ぶとかいうのでは、独学力は身に付きません。
また、読書をするのでも欠いてあることをただ鵜呑みにしてるだけなら、同じく独学力は身に付かない。
では、どうすると読書を独学力につなげられるかというと、自身の現在につなげる方向で勝手な読み方をして、実際に読んで得た知識を自身の現在につなげる創造的な活動をしてみることです。

この勝手活動こそが独学です。
ほかの誰にも通じなくてもよい自分勝手な学びややり方を好き勝手に得たり、組立てたりすることが独学です。
この力を最近、なかなか、みんな持っていないんだよなーと感じます。勝手に自分流の方法を見つけ、磨いていく力が…。

独学力こそが創造を可能にする

そういう思いからも紹介してみたい本があります。

アルゼンチン・ブエノスアイレスに生まれ、幼少期をイスラエルで過ごし、またアルゼンチンに戻って、かの偉大な作家ボルヘスがすでに目が見えなくなり、自力では本を読めなくなっていた時期にボルヘスに本を読んで聞かせる役割を担い、その後、イギリス、イタリア、タヒチ、カナダで生活し、現在フランス在住の数ヶ国語を操る作家・批評家であるアルベルト・マングェルが1996年に著した『読書の歴史―あるいは読者の歴史』は、その後、14ヶ国語に翻訳された世界的なベストセラーであり、日本でも1999年に翻訳され、昨年、新装版が発売され、また手にとれるようになった1冊なのですが、今回紹介したというのはまさにその本です。

読み終えたのは、もう何ヶ月も前。「「考え方」について考えてみる」という記事でもすこし取り上げたりはしていますが、先の「独学力」についての最近の思いから、あらためてこのタイミングで紹介してみようか、と思いました。

例えば、著者はこんな風に書いています。

もっとも、たとえコンスタンティヌス大帝のように、かなりの深読みというか曲解に近いものではなくても、ある書物を読んだ読者が自分なりの解釈をその書物に下すということはよくある。サルマン・ラシュディのように『オズの魔法使い』に亡命者の寓話を読み取るというのと、ウェルギリウスの作品にキリスト生誕の予言を読み取ろうとするのでは全く趣が異なっているが、それでも両者の解釈には、テクストから信仰のようなものを読み取る手品のごとき早業が共に認めれる。読者に許されるそうした解釈は、むろんそれほど他人を納得させるというわけではないが、少なくとも彼ら自身が確信している解釈であることは間違いない。

本の解釈は人それぞれ異なる。
まあ、当たり前といえば当たり前のことです。でも、そこから「テクストから信仰のようなものを読み取る手品」のようなことをしたり、「他人を納得させるというわけではないが、少なくとも彼ら自身が確信している解釈」を持ち得るようなレベルのそれは、単に「本の解釈は人それぞれ異なる」というのとは別次元のクリエイティブさをそこに感じます。

だから、この「信仰」なり「解釈」なりを、本を読むことで得た単なる思い込みといっしょくたにしてしまうのは避けなくてはなりません。創造的な意思を感じる前者に対して、後者はどちらかというと無知・無自覚ゆえの意思を欠いた誤読です。

「信仰のようなものを読み取る手品」や「彼ら自身が確信している解釈」を生み出すような本の読み方をするためには、そもそも創造的な意思が知の獲得に対して働いているはずです。それは、本に書かれたことをそのまま学ぼうとするようなそれとは違います。
いままさに読んでいる本を単独で読むのではなく、読み進めながら自分なりにいろんな他の本や自分自身の体験、思考を絡ませていく。目の前の本とそうした個人的経験に基づく様々な知の関係性において何かを生じさせる。そんな創造的なスタンスで望んでこそ、信仰なり、確信なりが生じてくるのであって、単にぼけーっと本を読んでいても、そんな読みができるはずはありません。


▲機械式の読書台を使って本を読む人

僕が独学と呼ぶのは、そういうスタンスで臨む学びです。
その意味では、独学はそもそも創造性とつながっている。独学における学びはそもそも創造によって可能になるからです。自分の学ぶことを自分で創造する。学び=創造です。
もちろん、学びだけですべての創造が可能になるわけではありませんが、いっぽうで独学すらもできない人に創造ができるかも疑問なところです。

創造が必要とされる時代において、あまりに独学を大切にしようという流れが見受けられない点に危機感は感じはしませんか?

本を愛するには、自由な読書経験が大事かも

そして、まさに本を愛し、読書を愛する著者自身のさまざまな本の自由な読み・解釈から生まれたものこそ、本書なのでしょう。
決して1つの筋道に収まるわけのない読書や読者に関する歴史を一連なりのストーリーとして編み上げるためには、そうした創造的な解釈がなければ可能ではありません。

そもそも、本をめぐる歴史の流れは決して1つではありません。
視点、そして、物事の流れ・関係性をどう読み解くかという解釈の仕方によって、語られる歴史は無限に存在可能です。

僕の読書歴のなかでも、本をめぐる歴史を綴ったものとして、港千尋さんの『書物の変―グーグルベルグの時代』書評)やヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』書評)などを挙げられます。前者は歴史自体も本がつくるものだという視点を持ちつつ活字の時代からインターネットの時代への変遷のなかで読者=群衆のあり方の変化を見つめ、一方の後者は本の歴史を「本棚」というすこし変わった視点から考察することで知のあり方の変遷を描きだしています。

もうすこし広い視点を含むものとしてはマーシャル・マクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』書評)やウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』書評)などの文字として書かれた情報を扱うメディアがいかに人間の思考や生活を変容させたかを語るもの、さらには本や図書館なども含めて知識そのものの歴史を扱ったイアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンの『知はいかにして「再発明」されたか』書評なども読んできましたが、それぞれの本に、それぞれの本の歴史があり、読書の歴史があります。

それらはどれも本にまつわる歴史を語っていますが、そこで語られるストーリーは決して1つのものではありません。どれも各作者の視点・解釈によって描かれたそれぞれのストーリーです。もちろん、同じ個別の出来事や人物などの事実を扱うことはあり、その点は共通していても、それでも語られる歴史は別物だったりします。
その意味では、本書の著者マングェルも書いているとおり、”突き詰めて言えば、「決定版」読書の歴史とは、おそらく本を読む者それぞれの歴史ということになるであろう”ということなのでしょうし、実際、僕自身がいまこの本を紹介しようとするときにも僕の読書の歴史が非常に大きく影響していることは容易に想像できます。
本を読むということはまさにこの「本を読む者それぞれの歴史」を形づくっていくこと、知の経験そのものを重ねていくことにほかならないはずです。経験であるという点が大事なのでしょう。それぞれ異なる経験をするというのが独学力につながるところ。個人的な経験である独学をして、そして、それぞれの知のストーリー=歴史を編み上げられるようにする。知を積み上げるというのは経験以外の何ものでもないということを忘れてはいけないと思います。

語られる歴史は異なっても、先に挙げたどの著者の本からも、本や読書への親しみや愛着を感じます。
でも、この1冊ほど、個人が本を読むという経験を肯定し、その経験への愛を感じさせるものはなかなかありません(他では、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールによる対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』くらいがそれに匹敵するか。ただし、本の歴史がテーマになっている本ではないけど)。

この読書という経験への愛こそが、この本が14ヶ国語にも翻訳されて世界的なベストセラーになっている大きな要因なんだろうなと思います。

孤独な読書、集団的な朗読

さて、なかなか本の紹介にならないので、すこし中身についても紹介します。

ここまで読書は個人的なもので独学を促すものとして話を進めてきました。
けれど、本書を読むと、そうした独学と結びついた読者が決して普遍的なものではないことがわかります。

「個人的な読書」と対比されるのは「聴衆が集まるなかで行われる朗読」です。
個人による読書ではなく、集団での朗読であったのは、文字を読める人が少なく、また本自体も数が少なく貴重だったからです。

朗読の聴衆に加わるということはまた、中世の平信徒の間でもごく一般的であり、また必要なことでもあった。印刷術が発明されるまで、識字率は低く、書物を所有するのは富裕な人々に限られ、それを読むことは、ごく一握りの人々の特権とされていた。

個人的な読書の前に、聴衆を前にした朗読があり、さらに朗読以前に文字を介さない語り継ぎがあったはずです。古くはホメロスの時代がそうだったでしょうし、日本においても平家物語などは今でこそ文字で読むことができますが、元は琵琶法師たちのあいだで耳によって伝承された非文字的な文学(言葉的には矛盾してますね)でした。

ヨーロッパにおいて日本の琵琶法師にあたるのが、以下で描かれるジョグラーなのでしょう。

ヨーロッパ諸国において11世紀から広まったのは、ジョグラーと呼ばれる旅芸人が、自作の、もしくは師匠のトゥルバドゥールから教わった詩を、朗読したりうたったりするというものである。ジョグラーたちは、その並はずれた記憶力で、全ての詩を暗唱していたのである。

シェイクスピアの演劇も、シェイクスピア自身が生きていた時代には文字で読むことができず、台本がなかったと言われていますが、中世を経て、ルネサンス期も後期に至るまでそうした口承の時代が続いていたことがわかります。

本が稀少で、多くの人が文字を読めない時代においては、知や情報を継承するためには、暗唱や朗読という声と耳による伝達が行われていたのであり、それゆえ、その経験は最低でも声に出して読む者とそれを聴く者の2人のペア、効率を考えれば、それ以上の聴衆を前にした暗唱・朗読という、「個人的な読書」とはまったく異なる体験でした


▲講壇で朗読をするアウグスティヌス

先にも名前を出した、マクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』書評)やオングの『声の文化と文字の文化』書評)といった本では、まさにこのあたりの口承文化から文字文化への移行がテーマにされ、そのなかでは読書というスタイルが音読から黙読へと変化する様も描かれます。
聴衆への朗読が行われていた時代においては、そうした聴衆の前で行われない読書の場合でも音読することがデフォルトでした。

とはいえ、そうした音読中心の社会においても、なかには黙読を行っていた人はいたようで、その珍しさからその黙読の様はしっかり記憶に残されています。
例えば、以下のアウグスティヌスの記録によるアンブロシウスの黙読の例のように。

部屋の中に誰かがいる時に行う朗読は、相手に配慮しているかどうかはともかく、その朗読に相手と共有するという意味を持つ。これに対してアンブロシウスの読書法は、まさに孤独な行為であった。この行為の意味するところをアウグスティヌスは次のように述べている。「おそらくアンブロシウスは、朗読をすれば、自分が読んでいるテクストの難解な箇所について、熱心な聞き手から質問を受け、それに対する説明をしたり、さらに深遠な問題について議論しなければならなくなるということを恐れたのではあるまいか。」

相手との共有を前提とする朗読に対して、アンブロシウスの黙読による読書は「孤独な行為」だったといいます。それはアウグスティヌスが想像したように、相手からの質問を遮り、他者への説明を省いたり、議論を回避することを可能にし、本と自分自身の閉じた形での思考を可能にします。

個人的な体験である読書は、相手への説明や相手からの質問を含む、複数人での議論という環境から人を遠ざけることで独学を可能にし、その代わりに複数人でのダイナミックな対話から生じる知のダイナミックな展開を手放すようにしむけるのです。

独学は決して自明のことではない

こうした朗読を中心とした文化、そして、それと表裏一体の形であった写本の文化のなかで、中世中頃以降、修道院に変わって都市において台頭してくる知のシステムである大学を中心に、いわゆるスコラ学と呼ばれる知のあり方が確立します。

11世紀から12世紀において形成されたスコラ学は、朗読を基軸とした知の方法であるがゆえに、アンブロシウスが避けたような相手への説明や相手からの質問を含む、複数人での議論などを学びの中心的な行為として利用するもので、「信仰から生まれる宗教的な教えと人間の理性によってなされる多様な議論とを調和させるための有効な方法論」とされるものでした。


▲中世における学生たちの学びの風景

ところが、朗読的なものであると同時に、写本的なものである中世の文化の特性からか、スコラ学がは「次第に、いろいろな考えを引き出すものとしてよりはむしろ保存するものへと変わっていく」ことになります。

ダイナミックな議論から様々な考えを創造するのではなく、伝統的な教えをアーカイブし引き継いでいく方法へと。

このスコラ学に基づく教育とは、基本的に、学生が痛々しいまでに骨を折って習得した既存の、そして公式にその妥当性が是認されているいくつかの判断基準に基づいて、テクストを考察していく訓練にほかならなかった。

この時点で「独学」とは正反対の、過度にドグマティックで保守的な集団的な知のあり方、判断の仕方が生じていることがわかります。

独学は決して自明のことではないということです。
時代によって、独学が中心になる時代と、過度にドグマティックで集団的な判断が台頭する時代があるということでしょう。

スコラ学におけるその集団的判断が優先された状況というのはある意味、読書から離れ、文字ではありつつもソーシャルメディア経由で入ってくる朗読や声に近い、集団的一体感を生み出しやすい現在の情報環境における集団的な判断(炎上や特定の情報・話題への集中)に近いようにも感じます。独学がうまく行われていない環境における共通点をそこに見出せるように思います

自分で経験したこを軸に知を展開する

そうした状況に変化が訪れはじめたのが15世紀くらいからだったようです。

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▲セレスタの図書館に保管された15世紀の学生のノート

このノートブックから分かることは、15世紀中頃の、少なくとも人文主義者が教育をしていた学校にあっては、徐々に読書が読者個人の責任において行われるようになっていたということである。翻訳者や注釈者、評釈者、語義解説者、目録制作者、選集編纂者、検閲者、正典を確定していく学者、こうした人々は、それまで権威者として公的にその高い身分を保証され作品研究に専念していた。だが今や、読者は独力で読むことが必要になり、場合によっては、読んでいるテクストの価値や意味を、こうした従来の権威に照らしながらも自分で判断しなければならなくなったのである。

この一文は以前に「「考え方」について考えてみる」という記事でも紹介しましたが、まさに集団的判断から個々人の判断への移行していく様子が見受けられます。

こうした教育を受けた学生たちが最終的に取った行動は、自分たちがよく知っている世界、自分たちの経験した世界の中に読書行為を据え、どのテクストに対しても、一読者としての権威を絶対的なものとして考えていくという姿勢だったのである。

読書に対する態度が集団的なものから個人的なものへと変わっていくことで、行動の仕方や知に対する態度に変化があらわれます。
伝統的な知からの解放が、スペインのレコンキスタの成功後にイスラム経由でふたたび知の表舞台に編入されたプラトニズムとの融合も経ながら、やがては科学・数学的な思考による知的革新が可能な流れが生み出されます。

誰もが、知と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない

さらに、知の個人的自由の獲得は単なる学門の領域を超えて、社会の変化を促すことになっていきます。特に、宗教の領域においては、その動きが顕著になります。それがいわゆる宗教革命の流れです。

1517年10月31日、聖書を独力で研究し、神の恩寵は既に行われている信仰の功徳のいかなるものにも優ると信ずるにいたったある修道士が、ヴィッテンベルクの全ての教会の門扉に、それを売ることで罪が許されるとされた免罪符の効力や聖職者の堕落を論じた95カ条の論難を張り出した。この人物こそマルティン・ルターであり、…(略)1529年、神聖ローマ帝国カール5世は、ルターの説に従う者の一切の権利を剥奪したが、これに対して14の自由都市とルターの説に従う6人の皇子たちは強く抗議する。教会のあり方に異議を唱え、後にまさにプロテスタントと呼ばれるようになった人々は、「神の栄光と救いと我々の魂の永遠なる生命に関しては、誰もが、神と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない」と考えたのである。

「誰もが、神と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない」ということ。まさに集団的判断から個人的判断への移行です。

この移行がまさに読書の歴史と関係していることは、イギリスにおけるプロテスタントである清教徒たちが、それまでの教会やそこで行われた儀式をナンセンスなものと考える一方、印刷術のおかげで一人ひとりが所有できるようになった聖書を個室で黙読することを通じて「内面」なるものを発見したこと、さらに、そうした内面と向き合うための読書空間として個室やそこに置くテーブルを要請したことなど、高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義 』で紹介している社会環境の変化からもわかります(「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」参照)。

独学力を大事だと感じる僕は、ルターのいうところをこんな風に言い換えてみたくなります。

 誰もが、知と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない

と。

個人個人が知としっかりと向き合い、それを用いて自らの説明を編み上げること。
それがどういうことかを想像するためにも、本書の著者マングェルが自らの読書経験をもとに彼自身の「読書の歴史」という説明を編み上げたことが何より参考になるように思います。

その意味でも、ぜひ手に取ってほしい本の1冊だと思います。




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