2014年07月03日

文学というデザイン

前回の記事の冒頭でも書きましたが、20代の頃の僕にとってヒーローは、夏目漱石でした。その後、シェイクスピアもそこに加わり、その2人がヒーローであることに変わりなく、いまに至っています。



僕がその2人をヒーローだと感じている理由は、その2人の文学者がデザイナーだからです。他にも数多くいるデザイナーのなかで、夏目漱石とシェイクスピアが、僕が憧れるデザイナー像なんです。

モノを作ることで人びとの生活を革新するのもデザイナーの役割だと思うんですが、僕はモノによる革新ということにはそんなに関心がないんですね。それよりも僕自身が文章によって人生を革新されている部分が大きいので、それを可能にするデザイン、その思考作業を実際に行う文学者にこそ憧れるんだと思います。そして、そのなかでも夏目漱石とシェイクスピアという2人の文学者が別格の存在だと思うわけです。

ところで、そんなことより多くの人は僕がなぜ夏目漱石やシェイクスピアのような文学者をデザイナーとして見ているかという点に疑問をもつことでしょう。
今回の記事の論点はまさにそこ。

文学はなぜデザインなのか?です。

ムネモシュネと9人の娘たち

僕が以前に「この本を読まないデザイン関係者なんてありえない」と書いて紹介した高山宏さんの『表象の芸術工学』の引用からはじめましょう(ちなみに、いまでも「この本を読まないデザイン関係者なんてありえない」と思ってるので、まだの方はぜひ)。



こんなことが書かれているんです。

プルーストは小説『失われた時を求めて』を素晴らしい衣装として織り上げることができなければ、偉大なカテドラルとして構築したといいました。ヴィクトル・ユゴーも似たようなことを言っています。このことの意味をほとんどのプルースト研究家、ユゴー学者がまったくわからないのですが、ヨーロッパのアートは根本的にそういうところから出てくるのです。アートが1つの全体としてあって、それはトータルにデザイニングの世界。その1つひとつを、たまたま「文学」と呼び、「建築」といっているにすぎません。

プルーストは小説と衣装と建築に大きな違いがあると思っていないというわけです。
そして、それはプルーストだけの話ではなく、同じようにユゴーもそうであり、それはヨーロッパのアート、デザインに対する根本的な見方だと高山さんは言っています。

そして、そうした考え方を「エクスプラーシス」と呼ぶのだと教えてくれます。

ヨーロッパには「エクスプラーシス」という芸術観念があります。あらゆる表現メディアは同じ記憶の女神「ムネモシュネ」が孕んだ9人のミューズであり、その一人ひとりが音楽や詩などをつかさどると考えられていました。だから「姉妹芸術」という呼び方が出てきます。何とかの姉妹篇とはいっても兄弟篇とはいわないの、面白いでしょう。

このエクスプラーシスについては、マリオ・プラーツが書いた『ムネモシュネ―文学と視覚芸術との間の平行現象』という本があります。プラーツに関しては前回の「思考の方法の2つのベクトル」という記事で、『官能の庭―マニエリスム・エンブレム・バロック』という別の本を紹介しましたが、文学や美術、はたまた工芸や建築、音楽などあらゆる領域のアートを横断的に論じられる博識な作家で、その著の深さにはどれも驚かされます。

マーシャル・マクルーハンなども書いていることですが、中世までは実際、芸術に境はなくて、例えば、詩と音楽はセットであり、中世を過ぎてルネサンス期にいたってもポリフォニーによる声楽でした。また、ゴシック建築などをみればよくわかるように彫刻や絵画は教会建築と切り離せないものであり、実際、それらを分けて考える発想もありませんでした。

ムネモシュネと9人の娘たちは仲良く1つの家族として認識されていたのです。

分類と組み合わせ

そんな芸術が分離していくのが、まさにルネサンス期以降のことでしょう。まず、絵画が美術にはおいては中心的な位置を占めるようになり、単独で成り立つようになります。そして、バロック期になれば、詩と音楽の分離がなされます。

もちろん、細かな分類がはじまったのは芸術においてだけではありません。
高山宏さんはこんなことも書いています。

自然科学でいう分類の問題もあります。どういうことかというと、つまり「虫が走っている」というより、「ゴキブリが走っている」と言った子供の方がランクが上なのです(笑)。「チャバネゴキブリ」、「◯◯チャバネゴキブリ」と言えればもっとランクが上がります。1660年代に起きたある変化というのは、「虫」というよりは「ゴキブリ」と言う方が近代人であるという考え方になってきます。ここに分類学が登場します。

マクルーハンに言わせれば、これはグーテンベルクの革命により「印刷本」という人類史上はじめての大量生産品が生まれ、そこではじめてまったく同じものが複数存在する状況を手に入れ、同じものを複数人が同時に所持できる状況が生まれたのがこの頃です。
同じものを複数人が所持できるということから、それらをコレクションし、並べるということも可能になる。集めて並べられるからこそ、分類が可能になるわけです。

この話はさらに、さまざまな人やモノなどを並べて描くことが可能な絵(タブロー)と、さまざまな物をその上に並べられるテーブルという同じ語源をもつ2つの観念の話に行き着いたりもするわけですが、それはまた別の機会に書くとして、先日、「マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜」という記事で紹介したマニエリスムにおいて、組み合わせ術やかけ離れたもの同士を組み合わせる隠喩法などが用いられるのも、実はこの分類の話とは無関係ではないでしょう。そもそも分かれていなければ、組み合わせることなどできるわけがないのですから。

相手の心にうむエフェクトという目標を共有する文学とデザイン

勘のいい人ならここで気づくわけですが、要素をある程度分けることができるようになり、それを自由に組み合わせることで新たなものを生み出せるようになるということは、デザインができるようになったということに他ならないのです。

そういう観点で、もっとマニエリスムとデザインの関係をみてみる必要があると考えるのですが、どうもみんな、そのことに無関心すぎますよね。無関心というよりは気づいていないということでしょうか。

だから、高山宏さんのような文学を専門とする人が、それを教えてくれることになる。
そして、マニエリスムの流れを組む文学者たちもちゃんとそのこと気づいていたんですよね。
それが先のプルーストやユゴーのような人であったし、さらには、エドガー・アラン・ポーなどは、かなりそのことに自覚的で、実際、それをまとめたエッセイを記しています。

どうです、みなさんのほとんどが文学とは何か、文学がたとえば物理学や建築学とどこがちがうのかといわれて、ちがいを内容に求めるわけでしょうが、文学の定義を形式に求めるのがポーのいい分です。それを、言葉が相手の心にうむエフェクト、効果というとっても新しい感覚の語で説明しています。ポーはこれを『詩作の哲学(Philosophy of Composition)』(1846)や『詩作の原理』といったエッセイにまとめ、詩は神から霊感を受けたある特殊な天才による特権的な仕事ではなく、音韻の持つ機能的な構造をしっかりと分析した技術者であれば誰でも作れるとまでいう。文学もデザイナーの仕事だ、と。

ここで言われる「言葉が相手の心にうむエフェクト、効果」。
それは前回の記事で、僕自身がマニエリスムについて考えるなかで書いた「表現であり、思考である以上、人の心や行動を動かすことが大きな目的となることは変わらないはず」ということにつながるものであるでしょうし、そもそも人の心や行動を動かすことこそ、デザインすることの中心的な目標なのではないかとも思います。

この目標を共有すること、そして、それを要素の分解と組み合わせの術を用いた創造によって行うという点では、文学とデザインが姉妹であることは疑いようがないものとは考えられないでしょうか?

小説もデザインも、つまりは悪だくみのこと

そんな関連性をもつ文学とデザインですが、高山さんはさらにこんな共通点も紹介してくれています。

推理小説に限らず、小説のことを「プロット」といいますが、「プロット」の何分の1かは「デザイン」と同じに、陰謀とか罠を意味します。コンプロットというと、これはもっぱら陰謀術数。すると、「デザイン」を施し「プロット」を作るとは、3人の読者のうちのバカな1人を騙すということ。推理小説そのものです。

陰謀としてのプロット、陰謀としてのデザイン。
そりゃ、とうぜん、そうでしょう。
人の心を動かし、行動を促すものであれば、それが陰謀や罠、謀などと通じていないわけがありません

ここも多くの人が見落としすぎているところです。
デザインのきれいなところばかりを見すぎているいまの風潮が僕はきらいです。それはデザインの魅力を著しく貶めているように思うので。

これは高山宏さんだけが言っているのではなく、ドイツの思想家であるヴィレム・フルッサーも『デザインの小さな哲学』という本のなかで、こんな風に書いています。

名詞としてそれは、とりわけ「計画」「プラン」「意図」「狙い」「悪だくみ」「陰謀」「形」「基本構造」を意味するが、これらすべてやその他の意味はどれも「策略」や「詐術」に関係している。動詞としての意味には、とりわけ「何かを考え出す」「装う」「下絵を描く」「スケッチする」「形づくる」「戦略的に処置する」がある。
ヴィレム・フルッサー『デザインの小さな哲学』

そして、誰より、この欺くデザイン、欺く芸術というテーマを掘り起こす作業をていねいに行い、見せてくれているのが、高山宏さんも絶賛のバーバラ・M・スタフォードでしょう。なかでも『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』書評記事)などは、17世紀末から18世紀にわたっての啓蒙の時代における視覚技術がいかにいかさまと科学的明証性のあいだを激しく揺れ動いたかを、豊富な視覚資料とともに紹介してくれている1冊です。

反イリュージョニズムの立場は17世紀末フランス懐疑派の自由主義の伝統に根を持っていた。フォントネルのデカルト的な懐疑の知が働いて、やがて18世紀後半にはどうしようもなくはっきりするはずのある重要な区別が浮き彫りになる。彼は深い専門家的観察と上っつらの讃嘆というものを区別した。いかにも魅惑的という現象に目を止めるぐらいのことなら、舞台の上の驚異や奇跡を眺めるのと同じく、「一種の魔術」なのであって、深い理解など何も必要ない、と。

合理的リクレーションは即ち視覚を介する教育であった。啓蒙の娯楽は目が、欺きのないパターン、精神を形成してくれる形態に適当に淫することを許した。国境を越えてアピールするこの大衆教化の形式はあたらしい感覚テクノロジーの助けを借りる。

高山さんも進めていますが、スタフォードの一連の著作も、デザインに関わる人なら本当は読んでおかないといけない本だと思うんですよね。

スタフォードはとりわけ視覚技術の魔術性に光をあてるわけですが、僕は視覚表現とおなじくらい人間を欺く言語表現に興味をひかれるし、魅力を感じるんですよね。
そんなこともあって、いろんなデザインのなかでも「文学というデザイン」に強い関心をもっているわけです。

まあ、どのデザインに興味をもつにしろ、デザインの具体的な手法にばかり目を向けていないで、そもそも、デザインとは何か、それは人類の歴史においてどんな位置づけにあり、何を犯してきたのかということにも、もっと目を向けたほうがいいのでは?と思う訳です。

   

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posted by HIROKI tanahashi at 23:39| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする