この生態学的認知論における「情報」と「環境」の定義のされ方はなかなか興味深く思います。
生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』
ここでいう「情報」はもちろん文字などで書かれた情報、言葉として話された情報などの人工的な情報のみを指すのではありません。人間のみならず生物が外界から普通に受け取っている視覚情報、聴覚情報を含むすべての情報を指しています。
変化のなかの不変
ギブソンは視覚に関する研究を進めるうちに、人の視覚が動くことで変形する周囲の環境のなかで不変なものを知覚する行為であることを発見しました。例えば、四角い机はどんな方向から見ても四角だと近くされるように、動きにともなう変形のなかで不変なもの(不変項、インバリアント)をピックアップするという行為自体が見るという行為であることを明らかにしています。もちろん、それは視覚に限ったことだけではなく、聴覚や触覚など、人のもつあらゆる知覚が動き(時間差)における変化のなかの不変の要素のピックアップにより成り立っているといまでは考えられています。(参照:「考える脳 考えるコンピュータ / ジェフ・ホーキンス」)
私たちが認識のためにしていることは、自身を包囲している環境に情報を「探索する」ことなのである。環境は、加工されなければ意味をもたない「刺激」のあるところではなく、それ自体が意味をもつ「持続と変化」という「情報」の存在するところとして書き換えることができる。佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』
このギブソンが生態学的認識論によって提示した「情報」のあり方は「情報は刺激が頭の中で加工された結果」であるという初期の認知科学が前提とした「情報処理モデル」における「情報」の認識とは異なるものです。
情報は人間が頭の中で独自につくりだすものではなく、人間と環境という関係のあいだにすでにあるものとここでは考えられているのです。
情報デザインにおけるコンテキスト
この情報に関する見方は、僕たちが普段感じている情報とも異なっているのではないでしょうか? 僕たちが普段思っている情報はむしろ「情報処理モデル」の「情報」に近いのではないか。このようなギブソンの生態学的認識論における「情報」という認識にたつと、情報デザインにおいてユーザーが情報に触れるコンテキストの重要性についてもまた違った見方ができるのではないかと思います。
新聞で読むニュースとWebやモバイルで読むニュースがまったく内容が同じでも異なる価値を意味を社会に生み出すように、リアルの本屋で本を探す経験とネット上で本を探す経験がまったく異質であるように、情報デザインというものを考える際に、狭義の情報のみをデザインすべき情報として捉え、その他、人が生きていく上では自然と得ている広義の情報をノイズと見なすのはどこか間違っているのではないでしょうか。
機械情報のデザインだけでヒトという生物は満足するか?
ヒトという生物が生きていくうえで必要としている広義の情報すべてを捉える視点は、西垣通さんが『情報学的転回―IT社会のゆくえ』などの著書でも提示している「生物情報/社会情報/機械情報」という区分をあわせて考えてみるとよいのかもしれません。その際、普段、僕たちが情報デザインを行っていると認識している際に扱う狭義の情報は、西垣さんがいうところの「機械情報」でしかありません。
そうしたデザインの仕方では、おそらくヒトという生物の欲求を真に満たすデザインを行うことはできないのではないかと、この生態学的認識論における情報と環境の捉え方を学んで感じました。
関連エントリー
この記事へのコメント
ノース