マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜

僕らは常々「技法」というものをすこし表面的に捉えすぎるきらいがあります。

技法やメソッド、やり方あるいは考え方、それに思考術、また結果というより方法としての芸術というものに、まともに向き合い、それとじっくり語り合うことをしないまま、盲目的にそれに従ったり、それが使える/使えないといったまるで無意味で的外れな議論や批評を行ったりしてしまいます。


▲アタナシウス・キルヒャー『大いなる知の術あるいは組み合わせ術』扉絵(『キルヒャーの世界図鑑』)より

「表面的に捉えすぎる」というのは、技法をちゃんと使えていないし、使おうとしていないという意味です。技法なのでそもそも何かを生み出すために用いる手段であるはずなのですが、よくある話で、手段が目的になってしまい、結果を出すためのものとして捉えられないことが多いし、そのために用いられないこともある。

「目的のために使える」ということをイメージしてもらいやすくするために、逆に「目的のために使えている」ほうの例でいえば、WebやUIの設計に関わる人ならごく当たり前にやっている技法であるワイヤーフレームを描くということなんかは、ちゃんと使えている人が多いほうの技法だと思います。

ワイヤーフレームを描くということが何のための技法であり、それをしないと何ができなくなってしまうかは、その手の仕事に携わる人なら誰でも多かれ少なかれ知っています。当たり前すぎてあらためて説明しようとするとうまく言葉にできない場合はあるかもしれないけれど、実際はちゃんとわかっているはずです。

わかっているからこそ、ワイヤーフレームを描かないなんてことはできない。
だって、それをしなければ、その先の詳細な視覚的設計も、機能的設計も進まないことがわかっているのですから。

技法をわかるというのは、本当はそういうことであるはずです。

技法のもつ価値は、技法それ自体の中にはない、外にある

けれど、何のためかも考えもせず理解もしないまま、ただ表面的にのみ用いられ、結局、使えていない技法というのも結構あるように感じています。
使おうと思うなら、なんでもっとちゃんと理解するために考えてみないのかな?と思うこと、しばしばです。

ある技法について考えるためには、技法の内部をみるのではなく、当の技法の外につながるものをこそ見る必要があるはずです。

はじめに見たように、ワイヤーフレームとはどういう技法なのかを考えるためには、ワイヤーフレームそれ自体について考えるより、むしろ、こんな風にそれをしないと何ができないか?という観点から考えたほうが理解しやすいように。そっちがわかれば、ワイヤーフレームという技法を使って何をしなくてはいけないかが明確になります(次の工程をイメージして、そのために何が必要か?ということをちゃんと考えることができる人なら)。

なのに、すこし抽象度の高い手法である、ペルソナやカスタマージャーニーマップみたいなものになると、同じUXのデザインに関わる人でも理解が怪しくなるのは不思議です。
ワイヤーフレームと同じように、それがないと次に何ができなくなるか?という観点から考えれば、ペルソナやカスタマージャーニーマップそれぞれが何の技法かはわかるはずなのですから。

あるいは、いま、ペルソナやカスタマージャーニーマップのような技法を使っていなくて、それらがなければできないことが思いつかないなら、いまのところ、デザインの過程でそれがあればできることを必要としていない(つまり、それらの利用によって解決できる問題をいまは問題とさえ気づいていない)というだけのことです。
必要ないのに技法が使えるはずはありません。
なのに、無理矢理使おうとするから、わけがわからなくなるのでしょう。

まだ存在しないものの現実化に向けてスケッチをする

また、すこし戻って考えると、技法というのは次の段階のためのスケッチ的な意味をもっていることにも気づきます。例えば、ワイヤーフレームという技法の意味は、ビジュアルデザインや機能設計のためのラフスケッチであるように。

そして、ワイヤーフレームのあとに作成されるであろうビジュアルデザインや機能設計書も、実は、最終的なプロダクトのスケッチ的な意味のものであったり、さらにその先の実際のUXを現実化するためのスケッチであることがわかる。
つまり、それらの技法は現実のコトを創り出すという最終目的を達成するための思考のスケッチの各段階であることがわかってきます。

同じことが映像制作における絵コンテの意味、書籍やドキュメント作りの際の台割作成の場合にも当てはまるでしょう。これも、それらのラフスケッチに当てはまる技法の必要性や意味は、それぞれの仕事に携わる人にとっては自明です。


▲ライプニッツの残したスケッチ。ライプニッツもまたこのあと紹介する結合術を研究した1人(『モナドの窓』より)

技法は、何かその先に現実化すべきものがあって、そのためのスケッチであると考えること。
スケッチをすることで人間は世界を創造することができるのだという考え。

実は、この考えはかなり根が深いものであるようです。
前に"「考え方」について考えてみる"ことを薦めた記事を書きましたが、それと同様に、僕らは、いまだ存在しないものを企画し現実化するために用いられた技法というもののあり方の歴史をもうすこししっかりと知っておいてよいはずです。

マニエラという地下水脈

マニエリスムという言葉があります。マニエラとは技法です。

ヨーロッパにおいては、古くからマニエラ=技法によって創造が可能だと考えるひとつの傾向があったことを教えてくれるのが、僕が好きな著作家の1人であるグスタフ・ルネ・ホッケです。



マニエラを自覚的に用いる人たちのことをマニエリストと呼びますが、ホッケは著書『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』で、マニエリストという存在が、ルネサンスとバロックの限定的な一時期に活動した芸術家たちのみを指すのではないことを教えてくれています。

ヨーロッパ文学におけるマニエリスムの源泉な古代の〈アジア的〉文体に遡る。このマニエリスムが、たんに1520年から1620年頃との間の狭く限られた意味でのマニエリスム的様式期のみに限定されない〈表現身振り〉として眺められるなら、そのとき私たちはヨーロッパ精神史の反古典的常数ならびに反自然主義的常数と関わることになるはずである。

ホッケは、マニエリスムという創造的思考の方法、表現の方法を、もう一方のそれである理性的思考をベーストした古典的方法や、自然の観察・模倣(ミメーシス)をベースとした自然主義的な方法と対置します。
上の引用部で〈アジア的〉と言われているように、〈アッチカ的〉(=アテネ風)な流れと対比することで、ヨーロッパの本流の裏側を流れるもう1つの流れであることを示唆します。

マニエリスム的な方法は、どちらかというと普段は影に隠れて表に顔を出さないものなのです。

"その怪物的な、文章による文章の、語による語の、文字による文字の飽くことを知らない生殖"がマニエリスム的方法の1つの特徴だとされますが、ホッケは、そうしたマニエリスム的方法があらわれるのは"世界史的な危機のさなかにおけるあらゆる種類の存在喪失の体験"を受けた人間が、"あらゆる事物が変幻しうる変幻の能力があるのだという感情を強める"ときだと言います。
 
「世界史的な危機のさなか」というのは、例えば、シェイクスピアやジョン・ダンあるいは、以下の引用にも登場するキルヒャーが登場した17世紀のヨーロッパであったり(例えば、デカルトの『方法序説』に代表されるような懐疑を根本におく「新しい哲学」が芽生えたその時代にジョン・ダンが「新しい哲学はすべてを疑わせる」とこれまでの世界観の終わりを指摘するように。「円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン」参照)、同じく引用中に言及されるマラルメあるいはヴァレリーなどが活躍した19世紀後半から20世紀前半の時代(世界規模の戦争の時代に突入していく時代)だったりします。

〈組み合わせ術〉あるいはアルス・コンビナトリア

そうした危機の時代を、マニエリスムという技法が世界を変えることを信じる1つの思想的傾向が地下水脈のように、時代間をつなげます。

当の数字、3 628 800 を私たちが発見したのは、マラルメの遺稿ノートの新しい刊行に際してであった。私たちはこの数字がアタナシウス・キルヒャーの〈大いなる知の術あるいは組み合わせ術〉の組み合わせの総計を占めていることを想い起こした。キルヒャーは、ライムンドゥス・ルルス(1223−1316年)の〈要約の法〉から刺戟を受けている。私たちが見るところでは、マラルメがすくなくともルルスの、この多面的にしてまたいかがわしい節もある盛期中世の哲学者兼詩人、この古代オリエントの認識法と智の仲介者の著作を研究していたことは確かである。

ルルス、キルヒャー、マラルメと受け継がれた〈組み合わせ術〉あるいはアルス・コンビナトリア。
あらゆるものが創造可能な組み合わせの秘法を見出そうとする、この怪物的で、きわめてマニエリスム的な方法は、上記の3名に加え、ライプニッツやドイツの詩人ノヴァーリスなども強く関心を示しました。

ミッシェル・セールにとって『デ・アルテ・コンビナトリア』とはタブロー化一般についての研究なのである。神の理性はあらゆる図表に抜きんでた予定表であり、予定調和とはあらゆる法則の一覧表のことであり、十全な百科全書とはまたも完璧な一覧表である。図表の助けを借りてこそ、既知のものから未知の項が割り出される。
ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア』



▲ライムンドゥス・ルルスの文字列を生成する機械仕掛けの術を示した図「小さき術」
(ジョン・ノイバウアーの著書『アルス・コンビナトリア』より)


上記でルルスが示すような図表として視覚化される、「神の理性」にも通ずる完璧な百科全書的な一覧表を見つけ出すことで、その一覧表の要素を組み合わせることであらゆる創造が演繹的に可能になる。
そうした考え方が、マニエリスムの詩人や画家などに共通した創造の方法として共有されたのです。

ただ1枚の表、キルヒャーがその表に名づけた命名によれば、〈われらが人工アルファベット表〉は、かくしてアルファベットの原−存在論、原−超−書物の存在論的構造を包括しうるのである。この表よりして〈すべての可能的なもの〉が単純な〈交換〉(〈可逆性!〉)によって演繹されうる。この思惟できない世界機械は完璧である。決定的なことは、要するにこのような組み合わせ術をもってすればすべてが演繹可能になりさえするということである。これがキルヒャーの問題点である。それは文学的マニエリスムの根本問題である。

自然主義が世界を観察し模倣することから創造するような帰納的側面をもつ手法だとすれば、まさにマニエリスムは世界を創造している機械の原理を明らかにすることで完璧な創造が可能になることを信じた演繹的な側面をもつ手法でした。

隠喩ーかけ離れたものを組み合わせる

アルス・コンビナトリア的な特徴とは別に、もうひとつマニエリスムには特徴があることをホッケは指摘しています。

その方法とは隠喩であり、一見無関係なもの同士を対置することで、新たなものを創造しようとする考え方でした。

詩作とはテサウロにとっては、〈言語劇場を構築する〉ことを意味する。隠喩の技術こそはあらゆる他の芸術の根である。対置の隠喩、すなわち相反するものを結合する隠喩こそは、明察の最良の所産である。

「対置の隠喩」、言い換えると「相反するものを結合する隠喩」こそが、隠されたものの発見を可能にする明察の技なわけです。

この「相反するものを結合する」技、無関係のもの同士を対置させて新しいものを生むという方法は、ニュートンが、リンゴの木からの落下と月が地球のまわりを回っていることという一見無関係と思われること同士を結びつけたのと同じだということに気づきましょう(ニュートンの逸話の真偽はここでは問いません)。

それは現在のイノベーション創出のための活動の領域で、エスノグラフィーやデスクトップリサーチ、未来予測のためのスキャニングなど、様々なリサーチを経て集めたデータを、KJ法などを用いて関係性を整理しながら、イノベーション創出へとつながる種を発見しようとする作業とも同じです。
それは紛れもなく「相反するものを結合する」ことで新しいものを生み出すヒントになる明察を得るための技法であり、それゆえ、多くの人が誤解しているようにアイデア発想とはなんらかのコツを使えばなんとかなるものではなく、大量の情報に溺れつつもそのなかに機智と明察にあふれる「対置の隠喩」を発見するという論理とセンスがともに求められる地道な作業技術からしか生じないものだということを僕らはしっかり理解すべきでしょう。

明察は、ジャン・パウルにしたがえば、〈相違を発見するため〉に存在する。機智はむしろ〈通約可能な量における相似の状態〉を発見する。したがって〈それはもっともかけ離れた状態を組み合わせる〉(テサウロ)のである。

組み合わせ術や隠喩という技法。
これらの思考技法によってあらゆる創造が可能かどうかは別として、これらが創造のための根本的な所作として文字通り地下水脈のように、あらゆる創造を支える技法であることに気づき、それを深く信じる態度には、技法を表面的にしか捉えられない僕らはもっと学ぶべきであるはずです。

19世紀の行き過ぎたマニエラ至上主義

とはいえ、行き過ぎた技法主義が目的を見失い、盲目な技法信仰に陥ってしまえば、それはもはや悲惨な結果しか生まなくなることは、歴史も示しているようです。

言語的−抒情詩的組み合わせ法の行き着くさきは隠喩の機能主義となり、ついには言的−汎神論となる。それは、形而上学的象徴額の担い手としての、具体的に神性を啓示するロゴスの記号としての言葉のためのある刺戟的な代償と化したのである。世俗化した組み合わせ術の行き着く先は私たちの世紀の無対象的な言葉の秘文字記号法となるのである。

この状況こそが、この記事の最初に指摘したような、技法というものを表面的にしか捉えず、目的を達成するための手段であることを忘れ、手段そのものを目的と誤認して、本当の目的を見失った状態なのでしょう。
もちろん、その状態からは、何も有意義なものは生まれてきません。目的を失った方法が生み出す無味無臭な屍だけが並び続けるだけでしょう。

ホッケが指摘したのと同様の19世紀の行き過ぎた技術主義を、ワイリー・サイファーも『文学とテクノロジー』のなかで指摘しています。



ほとんど技術主義的といっていい繊細さで、ポーは「目的はその達成のために最も適した手段によって達成されねばならない」という原理にのっとって、作業する。
ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』

だとか、

かくて、芸術作品とは、ゾラが理解していたような科学的実験の「証人としての観察」にも比べられる「仕上げ工程」によって、意識的に構築された構造物なのである。事実、小説は作家が実験的方法を用いれば、必然的に書き上げられるというゾラの考え方は、まさに文学は作者がその言語媒体の法則(この媒体の純粋性、その屈折の法則ないし秘訣)に従えば、ほとんどおのずからに成るというペイターの考えに大変近いものなのだ。こういう考え方は、詩とは新しい形に結合した「感情、語句、イメージ」をおさめる1つの容器であるというエリオットの提言や、詩とは「言語の一芸術であり、言葉の一定の組み合わせはほかの組み合わせではついに生み出しえぬ1つの情緒、われわれが詩的と呼ぶ情緒を生み出す」というヴァレリーの意見のなかにも再び現れるものなのである。
ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』

といった例をもって。

その先にあるのは、やはり、技法の孤立、あるいは、技法を用いる芸術家の孤立です。

中世の工人は自分の作品が本当にひとから必要とされたものであり、自分に定められた技術が1つの社会的な認証を得たものであることを知っていたにちがいない。しかし、いわゆる応用芸術とはいちじるしい対照をなして、いわゆる美術(ファイン・アート)の疎外は芸術家を孤立させ、彼は孤立のなかで内にとぐろを巻いて、自分の仕事をそれ自体のためにだけ行う以外に術もなくなったのである。かくして、手段媒体の自律的使用とは異なったものとしての技芸(クラフト)の問題が、19世紀の後期において起こることになる。
ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』

それがいま僕ら自身が抱えている、技法に対する薄っぺらの認識と同じものであるのは、すぐに気づくことでしょう。

僕らの技法に対する認識が薄っぺらいのは、それが孤立しているからです。
そして、技法が孤立してしまうのは、技法というものを誰もが簡単に応えを出せる魔法であるかのように誤解していることも1つの要因なのではないでしょうか?

技法がそんなものではないことは、実現を目指す目的の重さのほうに本当に向き合えば、実はちゃんとわかるはずです。
組み合わせ術にせよ、隠喩の技法にせよ、それは新しいものを創造を可能にする根本的技法であるにせよ、それは膨大なリサーチを行ったり、膨大なデータに向き合い、整理分類をしながら思考したりといった、ごくごく当然の創造のための苦悩を抜きにしては、何も生み出せないはずです。

技法というものがそういう苦悩に没頭することができる環境こそを用意してくれる発想の技であり、決して、苦悩から人を解放してラクに結果が生み出せるようにするものではないことを、僕らはしっかり受け止めて創造の技をふたたび手にする必要があるのではないでしょうか。

いま目の前にある「世界史的な危機のさなか」において。

   

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