昨日会社で美術カタログについて話していて、ふとむかし読んだ島本浣さんの『美術カタログ論―記録・記憶・言説』
美術カタログのはじまりが財産目録であったことに当時驚いたことで、とても記憶に残っている一冊です。

▲18世紀の競売目録。文字だけで作品の図版はない
『美術カタログ論 記録・記憶・言説』では、17世紀における美術カタログの誕生から20世紀初頭に到るフランス絵画界における美術カタログの変遷を調査することで、カタログにおける分類や記述の形式、あるいは美術作品そのものに対する言説の変遷が辿られます。
美術に関する記録の方法の発明とそれと同時期に起きた美術市場そのもののの発明、さらには、市場とそれを動かす核なるツールとしてのカタログが美術作品の一般への浸透を促した様を、ていねいに紹介してくれます。
この本を読むと、美術カタログというのは、初期には決して現在のような美術展覧会の図録ではなかったことがよくわかります。いや、そのようなものが必要とならない社会環境がそこにはあったことがわかります。
はじめに書いたとおり、それは財産目録としてスタートし、その後、上の写真のようなオークションの競売目録へと移行していきます。
以前に書いた書評記事で、僕は、こんな風に説明しています。
いわゆるコレクターの財産が売りに出される場。それがいまもアート作品の売買の場としてのオークションだ。
つまり、これまで権力や趣味の一覧表として身内内での相続に関わる記述であった財産目録が、その瞬間、オークションという商売の場で身内以外の他者である一般の美術愛好家に売るための商品カタログとなったのだ。
そして、それは同時に美術市場、美術作品の顧客である美術愛好家が生まれた瞬間でもある。
それがはじまったのが17世紀頃だと著者はいいます(あー、またしても17世紀!)。
十七世紀になると、相続者が何らかの理由で個人の財産を売りにだす際に、財産目録は印刷されるようになってくる。このとき、目録はカタログとなる。
財産の目録は"相続者が何らかの理由で個人の財産を売りにだす"ために印刷され、複製されるようになるのです。
ここからより効率的に財産を売りさばくために、オークションを行うことに発展していくのは当然の流れといえるでしょう。
カタログを作ったから、展示がはじまった(その逆ではない)
こうした出自をもつ美術カタログは、現在のように美術展覧会そのものをアーカイブする存在ではなかったし、それどころか、美術カタログが生まれた時点ではまだ展覧会というイベントも、美術館という施設も存在しませんでした。特定の家の財産として室内に閉じ込められていた美術作品を、財産目録としてのカタログが外に開きます。
はじめは、万人の観賞のために開かれるのではなく、商品として異なるオーナーに買い取ってもらうために開かれました。
買ってもらうために買い手の利便性を向上するために、カタログ同様の並びで、実際の作品を並べるようになってくる。僕らが想定しているのとは逆で、作品リストが並べられたカタログが先で、それを再現する形で実際の作品が展示されるようになるわけです。
そして、それはただ見てもらうためではなく、買ってもらうための陳列です。
同時に、作品に名前がつけられるようになったのも、カタログが作られるようになってからですし、そもそも、最初の目録であった時代からしばらくは、この記事の最初に掲載した写真のようにテクストのみで作品が紹介されていたわけです。
「買える商品は何か?」を示す役割なのですから、いまの展覧会カタログのように「あとで思い出せるように」という目的で作品のイメージを掲載する必要はなかったからだろうし、そもそも買うためのリストであれば、買ったあとや買うのをやめたあとに残しておく価値も、そもそも目録にはなかったわけです。
蒐集された作品をみる大勢の人の前に、まず、蒐集する人がいた
17世紀、美術カタログの誕生、そして、それを用いた美術作品のオークション形式での販売という流れと同時期に起きていたのは、このブログでは何度となく紹介しているヴンダーカンマーとよばれる個人蒐集部屋の流行です。そして、このヴンダーカンマーに集められた個人蒐集家の蒐集品がその蒐集家の死後に、博物館の形で公になる流れが生まれます(その代表格が古美術収集家の医師ハンス・スローンの収集品を死後、一般人に利用できるようにするために1759年に開館した大英博物館)。
この流れに沿って、美術作品に関しても、オークションあるいは美術作品の販売のためのギャラリーから発展する形で、売るためではない展覧会形式で並べて見せる美術館の歴史がはじまるのです。

こうしたカタログのあり方だけみても、いまの僕らの知っている美術カタログや美術展、美術館、そして、美術作品の関係とはまるで異なる美術のありようがあったことがここから想像できます(いや、その時点では"美術"という概念自体がいまと違ったはず)。
カタログという実際の物事に対応した情報を一覧化して見せるという形式が生まれたことで、実際にカタログに記載されたものをカタログでの意味づけも含めて、その通りに展示したり、それによる販売や美術作品の意味付けが成立していることには、もっと注目してよいはずです。物事に関する知を一覧化して並べるという形式のもつ力を。
そうしたカタログのようにテクストで一覧を並べる形式の知と、実際の物理的なモノを蒐集し並べることの関係に、非常にこだわったのが、まさに17世紀を生きた偉大な思想家・数学者であるライプニッツでした。
その蒐集物の展示というライプニッツのあまり知られていない、けれど、当人にとっては非常に重要な意味をもっていた活動について、紹介してくれているのは、ホルスト・ブレーデカンプの『モナドの窓』
こちらもすでに以前、書評記事で紹介しています。
文書の形式で知をカタチにすること
本の内容について詳しくは、その以前書いた書評記事を参照してもらうとして、ここではライプニッツがなぜ具体的な事物の展示にこだわったかのを軽く紹介するにとどめておきます。ライプニッツは、生涯に繰り返し、珍奇コレクションや絵画キャビネット、解剖学劇場、薬剤局、薬草園、動物園などの具体的な事物を集めた施設の構想を展開していますが、彼はそれらを総じて"「生きた印象と知識」のための劇場"として捉えていたと言われています。
今日の語法では「劇場」は芝居の上演される建物であり、演目そのものを指すが、17世紀の語法からすればそれらはあまりに狭い。テアトルムとは、物なり、イデーなりを徹底して見せるための場であり、その手段についての表記であった。それは田舎のひなびた場所に発し、建物を経て、絵画収集や、概念・百科全書・あらゆる書物の感覚的明示化までをカヴァーし、これらは1つの問題を、あるいは1つの対象を記述によって、または図によって、眼に見えるものにしようとするものだった。ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』
この引用に書かれているように、17世紀における「劇場」は、いまでいう博物館や美術館、さらには植物園や動物園などの陳列施設が含まれるほか、百科事典等の書物も含む概念だったということです。

ライプニッツは、こらら「劇場」概念で捉えられるもののうち、書物のように言葉や記号、図像表現で示される「劇場」と、実際の事物を集めて並べて展示する形式の「劇場」を分けて捉えており、後者を"「生きた印象と知識」のための劇場"として、重要視したのでした。
というのも、ライプニッツは、紙に表現された記号にこのような考えをもっていたからでした。
ライプニッツが信頼するのが、一義的に指標化された、ヴィジュアルとして納得できる「形象(フィギュア)」の客観性だったのだ。彼はこれら形象(フィギュア)のことを「書かれた、印とされた、あるいは造形された指標」と定義している。ライプニッツ思考理論の鍵が、これである。紙上に、あるいは他のメディア上に形作られるこうした記号の世界がなければ、諸客体の間をつないでいくシステムマティックな思考は想定できない、と彼は言うのだ。ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』
紙上で表現し、操作可能な記号を用いることではじめてシステマティックな思考は可能となる。
この記号を自由に配置したり、さらに記号を用いてシステマティックに展開した他人の思考をアーカイブしておく文書という形式の力は偉大なわけです。
その力が美術カタログにおいては買い手の購入欲望を動かし購入に至らせるわけだし、美術史やある一群の美術作品のシステマティックな解釈・意味付けを可能にしたというのが、先の財産目録にはじまる美術カタログという文書形式が成し遂げたことです。
ライプニッツは、この文書の形式で知をカタチにすることのもつ意味を十分に認識していたわけです。
「生きた印象と知識」を並べる
ところが、そのライプニッツが同時に次のようにも考えていたわけです。「もしもわれわれが、囲いの中で野生動物を、あるいは解剖学教室で骨格を見るごとく、事物そのものを常に眼前に見ることができるのなら、われわれはそれらを記号で表象する必要はさほどないだろう」。表象願望はそのとき記号の層を突っ切って、生き物や対象物に肉薄する。これらは自分で自分を指す記号なのであるから。ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』
記号の力は偉大だが、記号があらわす事物が実際に眼前にあるのなら記号は必要ではない、と。
これがライプニッツが「生きた印象と知識」を並べるための劇場を欲した理由であり、17世紀後半以降、博物館や美術館という劇場が数多く存在するようになる理由の1つでもあるでしょう。
しかし、ライプニッツも、博物館や美術館を実現した人たちもおそらく意識していなかったし、僕らもきっと勘違いしているはずのことは、実際の事物を並べることの意味は、実は、テクストや記号の形で紙上に知を並べる形式が先にあってはじめて人類が理解できたということだと僕は思います。
ライプニッツ自身が言うように、紙上で、自分の手の中、目の届くなかで、記号を用いて意味をシステマティックに生成する作業が可能になってはじめて、物事を並べて意味をつくるという、他ならぬ「デザイン」という思考方法が人類に可能になったのです。
そのデザイン的な思考がなければ、博物館などで事物を並べて、意味・ストーリーを生成して見せるということは成立していないはずなのです。
ポスト文書記録の時代を考えていく上でも
こうした意味で、記録や展示、そして、それを通じた意味やストーリーの生成などのはじまりと、カタログのような文書記録との関係をあらためてしっかり捉え直してみるとよいと思います。そのことで、並べて記録するということが、いかに20世紀までの知を特徴づけていたかに気づくはずですから。そして、同時にそのことに気づくことで、いまがポスト文書記録の時代で入ったことも、より強く自覚できるようになるはずです。
何か新しいことを考える際には、こうした今とは異なる過去についても知っておくとよいと思ってます。
だって、新しいと考えたことが以外と昔はそうだったってことはよくあることですから(例えば、AirBnBのような他人の家に泊まるという旅の仕方は、明治くらいまではむしろ当たり前に残っていたということのように)。
であれば、過去に関する知識は、新しい発想を生むために必要な「いまの当たり前」からのリフレーミングを可能にするヒントを与えてくれることもあるはずですから。
関連記事