「考えるとはどういうことか?」と考えることで、何かを考えるための方法が明らかになることがあるからです。
だから、「考えるとはどういうことか?」を考えるのは、自分自身がうまく考えられていないなと感じるときや、他人がうまく考えられていないなというのを目の当たりにするときだったりします。

▲この記事では、この2冊が登場するよ
うまくいかないから、その理由を自省する。
それって何かを改善するためにはごくごく普通の行為だと思います。
それを踏まえると、考えることがうまくいかない要因の1つが「考えるとはどういうことか?」ということを考えようとしない姿勢にあるということもできるはず。自分自身の考えるという作業のやり方についての自省を常日頃から行っていなければ、考えることがうまくなりにくいのはある意味、当然だと僕には思えます。
僕自身が「考えることとはどういうことか?」を何度も違った方向から考え続けてきたことで、ずいぶんと自分自身の考える力の幅と量を拡張できたという経験があるから、余計にそう思ったりもします。
でも、僕が「考えるとはどういうことか?」をときどき考えるのは、そういう改善云々という理由よりも、そもそも、それを考えるのが好きだから、という理由のほうが大きいんですけどね。まさに前回の記事で書いたとおり、自分の好き=数寄にこだわることをちゃんと僕自身も実践してるわけです。
考え方の歴史上のトレンド
僕が「考えるとはどういうことか?」ということに思いを馳せるのが好きなのは、考えるという行為が人間にとって、純粋に自然な活動ではなく、暮らし方や働き方などが歴史とともに変化したのと同じように、変化してきたものだからです。道具によって、暮らし方は変わってきました。
竈や囲炉裏の時代の料理や食事と、いまのシステムキッチンや電子レンジの時代の料理や食事は違います。
パソコンやインターネットの普及の前と後では仕事というものはまるで違います。
そういうことと同じレベルで、考えるためのやり方は大きく時代によって変化してきました。
そんな考えることのやり方の変化について、調べてみたり、考えてみたりするのが僕にとっては楽しいんです。
人類の歴史においては、いくつか考え方のトレンドの移り変わりがありました。
ここで「考え方」といっているのは、「あの人とは考え方があわない」とかいう文脈で使われるような意味での「考え方」ではありません。
その場合の考え方という語は価値観みたいな意味で使われていると思いますが、僕がここでいう「考え方」は、考える方法、メソッドという意味で言っています。
なので、歴史のなかで考え方のトレンドがあるといっても、歴史のなかでパラダイムシフトがあったということを指しているわけではありません。パラダイムシフトというのもつまり価値観の変化といえますから。
むしろ、パラダイムシフトは、僕がいう歴史上の考え方のトレンドの変化の結果として起きたのだということができると思います。
個人が考え方を変えることで、それまでとは違った発想が可能になるのと同じように、歴史上のパラダイムシフトも人類が考え方のトレンドを変えた結果だと僕は思っています。
という前置きをしつつ…、
では、どんな考え方には、どんなトレンドがあるのでしょうか? そんなことを今回はそのことについてとりとめもなく言葉を紡いでみようか、と思うわけです。
「デザイン」や「編集」も考えるやり方のトレンドとして捉えると…
ルネサンス以降にあらわれたトレンドはいうまでもなく「デザイン」という考え方・思考法です(cf.「ルネサンスの背景(デザインの誕生2)」)。間違えないように繰り返しますが、それは昨今のデザインという思考法が流行しているというレベルでいうのとはわけが違って、そもそもデザインという思考法はルネサンス以降の思考法のトレンドであると理解することが大事です。
つまり、それはデザイン思考なんて狭いレベルの話とはまったく無関係ということです。
デザイン思考云々の前に、僕らすべての現代人はデザインという考え方をベースに持っているのであって、その思考法で考えていない人なんて皆無といっていいのです。
デザインという思考法のベースには、編集という思考法が下敷きになっています。
編集は、知を紡いでいく思考法です。
編集という思考法も移ろいがあって、吟遊詩人の時代の文字が用いられずに行われた詩的知の紡ぎ方、そして、手書きの書物の登場以降、中世まで長く続いた写本と音読による編集的思考法の時代。
そして、ルネサンス期の印刷技術にともなってあらわれた組版による同一の情報メディアの大量生産・個人所有によって、それまでの編集的思考法が変化する形でデザインという新たな編集的思考法が生まれ、それまでの編集的思考法にとって変わります。
科学的思考法やマネジメントという思考法も、大きなデザイン的思考法という流れの一部だと捉えるとよいと僕は考えています。
「読書」という知的作業の変化にみる思考法の移り変わり
このルネサンス以降の思考法の変化を、書物や読書に対する人々の接し方の変化との関係からみるとなかなか面白くて、アルベルト・マングェルという人が書いた『読書の歴史―あるいは読者の歴史』著者がフランスでもドイツに近い都市ストラスブールから南へ20マイルほどの距離にあるセレスタという小さな街の図書館で出会ったそのノートは、そのセレスタの地にあったラテン語学校に通っていた学生が1477年から1501年にかけて残したものだといいます。
そのノートとは、こんな感じ↓だそうです。

▲セレスタの図書館に保管されたノートブック
このノートから著者が読み取っているのは、まさに「読書」という知的活動のやり方や意味が大きく変わったということです。以下がその要約といえる文章の抜粋です。
このノートブックから分かることは、15世紀中頃の、少なくとも人文主義者が教育をしていた学校にあっては、徐々に読書が読者個人の責任において行われるようになっていたということである。翻訳者や注釈者、評釈者、語義解説者、目録制作者、選集編纂者、検閲者、正典を確定していく学者、こうした人々は、それまで権威者として公的にその高い身分を保証され作品研究に専念していた。だが今や、読者は独力で読むことが必要になり、場合によっては、読んでいるテクストの価値や意味を、こうした従来の権威に照らしながらも自分で判断しなければならなくなったのである。アルベルト・マングェル『読書の歴史―あるいは読者の歴史』
読書がこの時期に、読者が独力で読み、自分で判断するものに変わったということを、著者はこのノートの書き込みを見て読み取っています。
「独力で読み、自分で判断する」ものに変わったということは、つまり、それまではそうではなかったということです。
それまで主流であったスコラ学に基づく教育においては「学生が痛々しいまでに骨を折って習得した既存の、そして公式にその妥当性が是認されているいくつかの判断基準に基づいて、テクストを考察していう訓練にほかならなかった」のであり、そこでの読書は、読者がテクストから個々で解釈を行うというものではなく、テクストと既存の公式の注釈との関係を理解していく作業そのものだったということです。
このスコラ学的な読書や教育という観点からいえば、この時代の思考というのは個々人が各々行うものではなく、公式に受け継がれてきた解釈を、丁寧に後世につなげていくような共同体的な色が強い思考だといえるはずです。
その思考が、改善と呼ばれるような持続的イノベーションであれ、それまでのものを完全に塗り替える破壊的イノベーションであれ、常にそれまでより良いものを生み出すために個々人が切磋琢磨して競争しあうような現代のデザイン的な知とは大きく異なることはすぐにわかります。
個々人が個人で自由に使える個人所有物を使って考えることこそ、デザインという思考法の特徴
先のノートブックが書かれていた、すぐ直後の宗教革命において、神とどのように向き合うかも個人の責任において捉えられたことも、旧来の教会を頂点とする共同体が1つになって神に向き合う方法と大きく対照をなすのも、まさにこの思考法の変化を象徴しているといえるでしょう。1529年、神聖ローマ帝国カール5世は、ルターの説に従う者の一切の権利を剥奪したが、これに対して14の自由都市とルターの説に従う6人の皇子たちは強く抗議する。教会のあり方に異議を唱え、後にまさにプロテスタントと呼ばれるようになった人々は、「神の栄光と救いと我々の魂の永遠なる生命に関しては、誰もが、神と単独で向き合い、自ら説明をしなければならない」と考えたのである。アルベルト・マングェル『読書の歴史―あるいは読者の歴史』
この神にも、書物にも、個々人で向き合い、思考するという思考法の変化を生み出したものこそ、印刷術によって大量生産されるようになり、個人所有やポータビリティが可能になった本という知の道具の変化であり、それがさらにデザインという思考法を可能にしたのだということは、このブログでは、何度か書いてきました。
つまり、情報の個人所有が可能になったところから、僕がよく言う「集める・並べて組立てる・新しい意味=価値を生み出す」というデザイン的な編集スタイルが可能になったわけです。
それが時代を下れば、カードの文具が手に入れやすくなってKJ法のような思考法が生まれたり、さらにポストイットが思考の現場に使われ始めるとブレインストーミングやワークショップなどのデザイン的思考法はさらに身近なものになってきたりもしています。
僕は、こうした個人が自由で使える個人所有物を用いて、物理的に(かつ視覚的に)編集的な思考をするやり方こそ、ルネサンス期以降のトレンドとしてあらわれたデザイン的な思考法だと捉えています。
欺く思考法、詐術としてのデザイン
そういう観点でいえば、宗教改革というのも、そうした個々人の思考を可能にしたデザイン思考による改革=イノベーションです。この昨今あらゆるところで語られる「イノベーション」という語を、デザインが1つの思考法であり、イノベーションとデザイン的思考が強く結びつけられながら語られることが多いという観点からみてみると、ちょっと面白い見方ができると思っています。
ドイツの哲学者であったヴィレム・フルッサーは、「デザイン」という語について、著書『デザインの小さな哲学』
名詞としてそれは、とりわけ「計画」「プラン」「意図」「狙い」「悪だくみ」「陰謀」「形」「基本構造」を意味するが、これらすべてやその他の意味はどれも「策略」や「詐術」に関係している。動詞としての意味には、とりわけ「何かを考え出す」「装う」「下絵を描く」「スケッチする」「形づくる」「戦略的に処置する」がある。ヴィレム・フルッサー『デザインの小さな哲学』
デザインが計画だということはよく言われますよね。プランだとか、意図だとかも。
ここで確認してほしいのは、フルッサーがデザインという語の意味として「悪だくみ」や「陰謀」を挙げていることです。

▲「スケッチする」という意味のデザイン。ゴシック期までは自然の模倣による装飾がなされていた。ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石―建築・装飾とゴシック精神』
この「計画」としてのデザインと、「悪だくみ」としてのデザインというのが、いまのデザインの2つの方向性をよく示しているなと僕には感じられます。
つまり、
- 計画するという意味におけるデザインである「マネジメント」というやり方
- 悪だくみや詐術という意味でのデザインである「イノベーションのためのデザイン」というやり方
そう。僕はイノベーションとデザインが結びつけられる背景には、それが詐術から生じるものだということが明確にあらわれているのだと思っているんです。
イノベーションは、まやかし、悪だくみ、策略から生まれるものだ、と。
この認識って実はすごく大事だと思うんですよね。
自分自身で自分をだましながら考える
詐術としてのデザイン的思考法について考えるにあたって、すごく参考になるのは、バーバラ・スタフォードが書いた『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』スタフォードは、その本のなかで18世紀の視覚表現をめぐるイリュージョンといかさま、そして、教育や科学的真実の喧噪へと発展していくさまを明らかにしています。詳しくは、過去の書評記事を読んでもらったほうがいいですが、こんな記述に代表されるようなイカサマと啓蒙をめぐる議論が、イメージをあざむきやまやかしに使おうとする人々と、教育や科学実験の証明などで使おうとする人たちのあいだで議論されたわけです。
合理的リクレーションは即ち視覚を介する教育であった。啓蒙の娯楽は目が、欺きのないパターン、精神を形成してくれる形態に適当に淫することを許した。国境を越えてアピールするこの大衆教化の形式はあたらしい感覚テクノロジーの助けを借りる。
(中略)
そしてまさにここに問題が生じたのだ。光学的にやりとりされる情報というものは、手品師、おもわく師、策士、にせ医者、興行師、器具制作者といった、要するに怪しげな眷族が次々繰りだす十八番でもあったのだ。こうして合理的リクレーションは幻想的な、あるいは「非」合理なリクレーションに対峙する計算ずくの対蹠者という存在でもあった。バーバラ・スタフォード『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
しかし、当たり前なんですけど、イカサマと啓蒙的な真実の証明のあいだに差異はなかったんです。その双方で用いられた思考法であるデザインそのものが紛れもない「詐術」なのですから。

▲見世物としての科学実験を描いた絵。バーバラ・スタフォード『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
先の本のなかでフルッサーは、梃子という「単純機械」にして「人工の腕」が重力を策略にはめて、自然法則をたぶらかすことで、腕だけでは到底持ち上げられない重いものでも持ち上げられるようになることに触れつつ、こう続けています。
これこそはデザインであり、それはあらゆる文化の基礎を成している。技術によって自然を策略にはめ、人工的なものを通して自然的なものを上回り、われわれ自身にほかならない神がそこから降臨してくるような機械を組立てること。要するに、デザインはすべての文化の背後にあるものだ。それは、狡猾なやり方で自然に制約された哺乳動物であるわれわれを、自由な芸術家に変えるのである。ヴィレム・フルッサー『デザインの小さな哲学』
この観点からみれば、人ははじめからデザインという思考法をしていたと考えることもできます。でも、僕はフルッサーは、ちょっと歴史を間違った目でみてしまっているようにも思う。梃子とデザイン的思考法でつくられた道具はおなじ欺く思考法で作られたとしても、ちょっと意味が違うと思うんです。
梃子は人が自然をだますだけの思考によって作られた道具ですが、ルネサンス以降のデザイン的思考でつくられるものは、単に自然をだますだけでなく、そのだますための思考をするためにまずほかでもない思考をする人自身をみずからだます思考を行っているからです。そう。自分自身で自分をだましながら考える。それがデザイン的思考法のもう1つの特徴。
そのことは、例えば、ジョン・ラスキンの『ヴェネツィアの石―建築・装飾とゴシック精神』
というわけで、今回の記事で書いたなかで挙げたデザイン的思考の特徴を整理して、とりとめなく考えたこの記事を終わります。
- デザイン的思考は、個人が自由で使える個人所有物を用いて、物理的に(かつ視覚的に)編集的な思考をするやり方
- デザイン的思考がトレンドになったのは、読書が読者が独力で読み、自分で判断するものに変わったことと無関係ではない
- デザイン的思考以前は、人は単に自然をだました。デザイン的思考では、人が自分自身で自分をだましながら自然やほかの人をだますことを考えるようになった
以上。
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