2014年04月03日

発想力を高めるための数寄index化

自分の好みを知ること。
自分がどんなもの、ことにワクワクと心を動かされるかを知っておくこと。
うん。それってとっても大事。


▲1つ1つに特徴がある、類似するものが並ぶ状況に、僕はワクワクします

自分自身の心が外界の刺激に対してどんな動きをするかということについて探求することは、このとてつもないスピードで情報が行き交い、イノベーションの進行で刻々と状況が変化し続ける世界において、意味のあることを成す上では何より大事なことだと最近ものすごく強く感じています。

自分がどんな物事にワクワクするか、自分の心がどんなとき/どんなことに反応するか。
そういうことを知ることが、どうして、いまの社会環境において大事になっているのか。
それは、自分の心と頭で捉える外部からの情報をいかに連動させるかが、いまの世の中において、新しい物事を発想し、実現するために活動するためのリソースの所有と利用可能性の鍵を握っていると考えているからです。

頭と心を連動しやすくしておくために

新しい物事を発想したり、その実現のために活動したりするためには、結局、そのための素材が必要です。

新しい物事とはいえ、ゼロから何かが生み出せるわけではありません。
すべての物事は既存の物事をリソースとして生まれます。

だから、新しい物事を生み出すために、どれだけのリソースを保管してあり、かつ、それをいつでも自由に利用可能にしているか?は重要になってきます。

このときのポイントはいうまでもなく「いつでも自由に利用可能に」という点です。
つまり、リソースをただ単に集めてプールしておくだと意味はないわけです。

多くの人が情報収集やネットワークづくるにおいて間違いがちなのは、ここでしょう。
情報にせよ、つながりにせよ、集めておいただけでは、いつでも自由に使えるようにはならなくて、集めた情報をどうindex化して利用可能な状態にしておけるか?がキーとなります。

この「いつでも自由な利用可能性」につながるindex化という作業において、重要になるのが、自分自身の心の動きを把握しておくことなんですね。
つまり、頭(情報)と心の動き(index)を連動しやすくすることが、結局、本当の意味で、自分の引き出しを増やす上では欠かせないことだと思うのです。


▲僕自身は、人工的なものよりも、自然生成的なものに惹かれることが多い

好みを捨てて客観的になることなど、してはいけない

繰り返しになりますが、発想力って結局は素材力だと思うんです。

発想のために使える素材をどれだけ自分のなかに持っていて、どれだけそれを自由に使える状態にできているかということに関わると思っています。量的にも質的にもよい形でアイデアを出すためには、情報素材の引き出しが鍵ということです。

そうなってくると、発想力を高めるためには、まず素材収集力が大事で、さらにさらに、それを可能にするためには観察力とかリサーチ力が重要なんだよねという話に思えてきます。
使える素材を集める目利きの力、そして、集めたそれらをどう扱えるようにするか?

だから、単純に、普段から情報収集をしていればよいということではないと思うんです。
情報を必要なときに自由に使えるようにするためには、自分のなかにそれぞれの情報をしっかり位置づけておく必要があるからです。
そういう意味での目利きの力が必要です。

妙喜庵の待庵のつくりには、すべてを捨てきった丿貫とはちがう、捨ててなお捨てきれぬものを残しえた利休の優位を感じる。二畳台目、室床、躙口、天井、いずれにも覚悟も作文もあった。逆にいうなら丿貫には「好み」が欠けていたということなのである。
松岡正剛『日本数奇』

「好み」を捨てた客観性というのは、実は実用的な知にはならない。
そんなことを上の松岡正剛さんの千利休と丿貫の比較を読んで感じます。

自分なりの解釈による情報のindex化の作業が発想の準備となる

そういう使える素材という知こそを僕らは集め、自分の引き出しとして持っておく必要があるはずです。
そして、持っておくだけでなく、使うために自由に利用可能にしておかないといけない。

自分のなかで自由に情報を引き出せる(つまり固定観念的なカテゴリーにとらわらずに情報を扱える)ためには、情報をインプットする時点で自分なりの解釈を経たindex化の作業が不可欠です。
この解釈〜indexingの作業自体が、後の発想のための事前準備だからです。

でも、多くの情報収集家たちはそれをさぼって、単に情報を頭につめこんでるだけですよね。それじゃあ、その情報をうまく発想につなげることはできないはずです。
その事前準備もなしで、後工程の発想が機能するはずもありません。


▲タカノ綾さんの絵が昔から好き。最近出たばかりの作品集『すべてが至福の海にとけますように』も買った!

自分の数寄をみがくことってやっぱり大事

この解釈〜index化の作業において大事なことが、自分の心の動きを知っておくことだと思っています。
心と連動していない情報の保持なんて発想力が問われる場面においては無意味だからです。

既存に流通しているカテゴライズのまま、情報を頭に記憶させておいても意味がない。
だって、多くの発想の場面においては、既存のカテゴリーを超えて想像力を働かせられるかがポイントになるからで、それには自分なりに情報と情報をつなげておく必要があります。
その自分なりのひも付けで、ぐぐぐいっと芋づる式に、一見無関係な情報を引っ張り出すからこそ、新しいアイデアというのは生まれるはずです。
その結びつきこそ、利休が捨てなかった「好み」というものから生じるものなのだと思います。

だから、それって、自分が興味のない事柄、自分の心が動かない事柄に対しては、あんまりいい感じに機能しないんですよね。心の動きと情報とを連動させることで、心の動きにあったひも付け=index化をするわけだから、とにかく自分の心が動かないような情報をいくら入れようとしても、それは時間の無駄だと思うんです。

それに、その手の情報はちょっと記憶に残しておけば、いくらでも検索可能なのですから。
それは発想の素材というより、考えを固めたりブラッシュアップするときだけに必要な情報でしかないと思うんです。
だったら、必要なときに検索して使えばいいじゃないか、と。

それよりも発想を鍛えるためには、自分の心の動きに連動したindex化=発想の引き出しづくりに精を出したほうが得策だと思うんです。

情報を集めて、正しい分析をしようとしても大したものは生まれません。
情報を集めて、楽しく分析しようとするからこそ大したものが生まれてくる可能性は高まるのです。


▲こんな何でもない空間を切り取った写真が好き。テクスチャを感じるから。美術作品をみていて惹かれるのは、イメージやボリュームではなく、テクスチャだったり。

そして、何よりそれこそが本当の意味での知だろう、と思うわけです。

単純に外部の物事について知ることは、本当の意味では知ではなく、外部の物事について自分自身がどう感じるかといういう関係性を捉えることが、かつては本来の知だったのだろうと。
そう。人が知というものをいまのように間違えてとらえるようになる前の、日々想像的に生きることがむしろ普通だったころの本来的な知のあり方。
何が正しいとかでなく、自分自身が生きるために役立つか役立たないかだけで決まる無駄のない知。
それが頭と心が分離せずに動くために使われる知なのだろうな、と。

そんな意味でも、自分の数寄をみがくことってやっぱり大事だなーと。
そんなことをあらためて感じる今日このごろ。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 22:19| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする