今朝も朝ご飯を食べたあとさっそく、雪の積もった近所の細い路地を、人が通りやすい分だけでも雪かきしました。
長さにして、20メートルほどの距離を、まっすぐに30-40センチくらいの幅で道をつくっていきます。
雪かき用のスコップなど、うちにはないので、ちりとりで雪をかきます。腰を落としての作業になるので、結構な労働です。先週などは、積もってはまた雪かきという風に繰り返したので、次の日に腰から股にかけて筋肉痛になりました。
そんな記憶もあったけど、とにかくやらないと出かけるときに足下が悪いので、朝1にやらないとって思ってました。今日の雪は先週に比べて、湿気は多かったので、ちりとりではさらに大変でした。
けれど、雪の積もったなかに、グニャグニャとした黒い道が通る見た目のすがすがしさや、歩くことも容易になる体感的快適さは、やり終えると嬉しさがあります。それなりに疲れる作業だけど、楽しかったり。それで実際歩いてみて快適さを感じると、余計にやった感を感じます。
雪かきしてある場所/してない場所がまだらに存在
そういう嬉しさみたいなことを知ってしまうと、逆に、外出した際などに、雪かきされている場所とそうでない場所がまだらに存在しているのを見て、雪かきしていない家や集合住宅に対して、なんだろうな?とつまらなさみたいなものを感じてしまいます。「雪かきしよう」という発想が思い浮かばない思考の貧困さをつまらなく感じるんです。
それは、何もうちの近所の住宅街だけでなく、先週などは表参道の人通りが多い場所でも同じでした。
店によって前の道をちゃんと雪かきして歩きやすいようにしているところとそうでないところがまだらになっていて、通りを歩く人も歩きにくそうで、何度も軽く人がつまって混雑してしまうシーンがありました。そういうのを店の中から見て店員は何にも感じないのかな?と思ったり。
そういう想像力のなさって、つまらないなーって思う。
ソーシャルグッドだとか、共創だとか、地域コミュニティが大事だとか、社会への参加だとか、そういう言葉がいまもてはやされる傾向にあります。でも、そういう言葉にワクワクを感じている人が、今日みたいな日に普通に雪かきしてるんだろうか?とかも思ったりもします。
▲近所の駅の前の交差点が、排水溝が雪で埋もれてしまっているために雪と水たまりでびしょ濡れでひどい状態だったのを見かねて、40分くらいかけて足だけで排水溝へと水が流れる道を作ってしまった。先週も同じ状態で「駅の人とか雪かきすればいいのに」とか思ってしまったけど、そう思うなら自分でやれよというのを自分でやってみたあと、あらためて思った。
ソーシャルグッドなんていう耳障りのよい言葉よりも、こんな日の雪かき作業だとか、満員電車での立ち位置や混雑した駅の構内の歩き方だとか、そういう日々の自分のあり方・振る舞いが社会にどう影響を与えているか、逆に何にも与えられずにいるかといった視点で捉えて、日々、普通に行動できるかということのほうがよっぽど人としてのおもしろさを感じます。
逆に、そういうことを日々できずに、ソーシャルグッドなんて言葉をいくら口にしても、本質的な魅力が感じられません。それじゃあ、つまらない。
無骨に、ゴリゴリっと。
そんな"つまらなさ"とどの程度、関連があるのかわからないけど、いまの世の中の情報とか、記事の発信の仕方だったり、いろんなモノの見せ方についても、目移りの良さや耳障りの良さばかりを過剰に気にしすぎたものが多いように感じてます。もうちょっとクリエイティブな要素をなくして、無骨でゴリゴリっとした状態で差し出されるものがもっとあってもいいように感じています。
ネタ的な方向に走ったり、なんか表面的にいわゆる「クリエイティブ」な方向に走ってみたり。そういう表現は、やっぱり小手先の印象があって、その目的は「わかりやすさ」とか「とっつきやすさ」なんだろうけど、それはあまりに過剰に重視されすぎていて、結構、本質的なところを見えなくさせてしまう原因として働いてしまっているようにも感じたりもします。
なんとなく、おしゃれに見えたり、ワクワクを感じさせてくれたり、親しみやすさを感じさせてくれたり、というのは、もちろん、良いことなのだけど、必要以上にそこばかりを狙って、そのように見えるように仕立てることばかりに意識が集中していて、そのものや情報自体の品質や強度・耐久性や味わいのようなものがおろそかになってしまっている記事や創作物、製品が多くなってしまっているように思う。それはやっぱり"つまらない"し、僕自身はそういうものに魅力が感じられない。
そういうものばかりじゃなくて、もう一方には、もっと日常的で、ナチュラルな言説、表現、態度を目指したものがもっとあってよいように思う。少なくても、僕はそういうものに触れていたいなと思います。
水気を含んだ雪かきの仕事の地味さのように
そんなことを思うとき、僕は、かつて日本民藝運動をリードした柳宗悦の「正しき工藝の11の法則」のことを想いだします。次のようなものです。
- 工藝の本質は「用」である
- 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
- 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
- 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
- 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
- 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
- 手工藝にも増してよき工藝はない
- 正しい工藝は天然の上に休む
- 高き工藝の美は無心の美である
- 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
- 工藝においては単純さが美の主要な要素である
ここに示されている方向性は、いま"クリエイティブ"と評されやすいものとは正反対の方向性であるように感じます。2番目の「最も純な美は、日常の用器に」だとか、8番目の「天然の上に」とか、10番目の「個性に彩る器は全き器となることはできぬ」とか。個性や、ウケを狙うような方向性とは逆のものを感じます。
今日美術と呼ばれるものは皆Homo-centric「人間中心」の所産である。だが工藝はそうではない。そうでないがために卑下せられた。しかしそうでないが故に讃美される日は来ないであろうか。工藝はこれに対しNature-centric「自然中心」の所産である。ちょうど宗教がTheo-centric「神中心」の世界に現れるのと同じである。柳宗悦『工藝の道』
工藝がNature-centricであって、Homo-centricでないがゆえに、ある意味では目立たず、地味で、わかりにくくもなりえる存在であり、そうであるがゆえに、先に"クリエイティブなもの"として表現されたものに比べて、理解にすこし時間や学習が必要なものだとはわかる。そして、そうであるがゆえに、工藝的な無骨でゴリゴリっとしたものより、つるっと滑らかではなやかでとっつきやすいクリエイティブなものが好かれるし、流通されやすいのもわかる。
工藝的な無骨でゴリゴリっとしたものには、水気を含んで重たくなった雪をかくような雪かき作業の地味さに似ていないだろうか。それはソーシャルグッドという言葉のようなワクワク感は伝わってこないかもしれない。
けれど、本当の意味で、人をもてなすということを考えるとき、その雪かき作業のような地味で無骨な仕事って、人にわかりやすくとっつきやすいワクワクを感じさせるクリエイティブな仕事と同じくらい大事なことなんじゃないかと思ったりします。
そして、すくなくとも僕自身は、工藝的な無骨でゴリゴリっとした仕事のほうに面白さを感じるのです。
今日の雪かきでもお世話になった冒頭写真のDannerのブーツの作りなんて、そんな無骨でゴリゴリっとした哲学を感じさせてくれる一品。40分交差点の雪かきを足だけでやってパンツの裾がびしょ濡れになっても、靴の中はまったく平気なくらい、Dannerブーツのゴアテックス仕様の防水性をあらためて実感させてもらいました。
上の写真をFacebookにアップしたら、「雪かきもオシャレ着なんですね」なんてコメントをもらったけど、そうじゃないんですよね。コメントでも返したんだけど「本来、雪かきなどの作業に適した服を、おしゃれに着てる」というのが僕の感覚。
逆におしゃれなだけで、そのままでは雪かきもできないような、元々おしゃれなものを与えるクリエイティブな方向性ってだから、ちょっと違うと思ってしまうわけです。
まあ、ここは余談です。
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