ユーザーの文脈のなかに入り込む
師匠と弟子という調査法においては、インタビューアが弟子となり、調査対象のユーザーという師匠に、普段行っている特定の仕事(タスク)を見せてもらいながら、師匠の経験を弟子に伝承していくという手法です。師匠は仕事を見せながら説明し、弟子は不明な点があれば、どんどん質問をします。また、弟子はその都度、自分が理解しているかを師匠にチェックしてもらいながら進めます。
こうした調査法が必要な理由は、ユーザーの特性として
- 情報を要約してしまう
- 提供する情報が不完全である
- 例外的なものに触れない
などの傾向があるからです。
「情報を要約してしまう」というのは、ユーザーは聞き手が喜びそうな情報ばかりを話したり、ストーリーを圧縮したり合成したりということがあるということです。
「提供する情報が不完全である」というのは、途中を飛ばして話したり、あるいは、そもそも途中から話したり、話の順番がでたらめだったりする傾向を示します。
「例外的なものに触れない」というのは、失敗談を話したがらなかったり、自分だけの仕事のコツみたいなものにもなかなか触れようとしない傾向を指します。
こうした傾向をもつユーザーの語りに惑わされないようにするために、師匠と弟子に代表される文脈調査法では、ユーザーが普段行動している文脈そのもののなかに調査担当者がみずから入り込み、調査担当者がみずからユーザー文脈を体験し、そして、その体験のなかでユーザーに教えを請いながら、ユーザーと同一化することを目指すのです。
クマを師匠として山の知識を得る
こうした「師匠と弟子」のような調査法は、「経験価値の人間中心設計」でも書いたように、もともとは人類学、民俗学におけるフィールドワークやエスノグラフィといった調査法をもとにするものです。非近代的な生活をおくる異民族のことを知るために人類学者は、現地に赴き、そこで現地の人びとと生活をともにすることで、人びとの文化を、人びとの生活を、そして、人びと自身について学ぶのです。
しかし、そうした人類学的アプローチを使う、はるか以前から人びとはそうした他者の文脈に身をゆだねることで学ぶという方法を知っていたようです。
こういったハンターと獲物との共感的な同一化はさまざまな狩猟民の間で知られている。生涯に60頭のヒグマを仕留め、「アイヌ民族最後のクマ撃ち猟師」といわれる姉崎等は、クマを師匠として山の知識を得たという。寺嶋秀明「1章 鳥のお告げと獣の問いかけ-人と自然の相互交渉」
河合香吏編『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』
「クマを師匠として山の知識を得た」。
まさに「師匠と弟子」です。そして、その方法も、
クマの行動をただひたすら読み、クマのように考え、クマのように行動する。それこそがハンターにとって最良の狩猟の学び方なのである。そして、とうとう「野生の動物となんにも変わりがなくなった」自分を発見したのである。寺嶋秀明「1章 鳥のお告げと獣の問いかけ-人と自然の相互交渉」
河合香吏編『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』
という形で、相手の文脈に身をゆだね、相手の身になって考えることで、相手と変わりがなくなる「自分を発見する」という方法です。
これは「経験価値の人間中心設計」でも引用した、マルセル・プルーストの「発見のための航海の本質は、新しい景色を探すのではなく、新しい目を持つことである。」にも通じます。
何度も繰り返しますが、発見とは自分が変わることなのです。
ちなみに、もう1つ似たような例をつけくわえておくと、哲学者のジル・ドゥルーズがとった思考戦略も批評する相手の文脈に首尾一貫して入り込むことでその内部から亀裂(綻び)を生じさせるというものだったといわれています。
相手の文脈に入り込み、自分の思い込みというフィルターを除去する技術。それが発見の方法なんですよね。
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