マーケティングやユーザビリティに対する人類学的アプローチ

「ひとを理解する」ということへの興味、欲求がとどまりません。

脳科学や認知科学に対する興味もそうですし、マーケティングやユーザビリティというものを仕事のひとつに組み入れているところもそう。最近のペルソナデザイン・プロセスに関する興味も結局は「ひとを理解する」ということの延長にあるものです。

最近そのことを特に感じ、結局は「ひととは何なのか?」「どのように理解したらよいか?」ということが僕の興味の根幹にあるのかなと感じています。

デザイン・プロセスの上流工程はどうもおざなりにされているのではないか?

昨日、本屋で見つけ、値段(¥4,830)が高いからどうしようかと迷ったあげく、結局購入した『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』を含む、人類学や民族誌学(エスノグラフィー)に対する興味にしてもそう。

最近、マーケティングやユーザビリティを考えるにあたり、やはり、重要なのはISO13407のデザイン・プロセスにおいて上流から下流までの首尾一貫したプロセスの徹底を大事にすることなのではないかと思っています。

そして、比較的、検討および実践されていると思えるプロトタイピングやユーザーテストなどの下流工程と比較して、ユーザーの利用状況やニーズを把握し、要求事項を明示する一連の上流工程に関してはどうもおざなりにされがちな印象をもっています。

そうした印象をもっているので、異なる文化、生活様式をもつ人々の暮らしや生活における行動そのものを調査し分析する人類学やエスノグラフィ的なものに最近興味をもっていて、さらにそうした調査で得られた知見、発見を具体的なデザインに落とし込むための第一歩であるペルソナ/シナリオ法に着目しているのです。

ユーザビリティをどう説明するか?:small usabilityとbig usability

デザイン・プロセスを上流から首尾一貫したアプローチを行うことの重要性に関しては、例えば、先日も違う記事を引用させていただいた「黒須教授のUser Engineering Lecture」でも、「ユーザビリティをどう説明するか」という問題に関して、次のような項目をあげてらっしゃいます。

(4) 上流プロセスからの一貫したアプローチの必要性を説く
単に設計者のアイデアに頼るだけでなく、もっと根源的に上流から首尾一貫した人間中心設計をとることによって、可能な限り、いろいろな問題点の発生を防ぐことが可能になる、といった話をする。
(中略)
(6) そして上流で利用すべき手法から説明し、中流でのラピッドプロトタイピングの効果を説明し(形成的評価を含む)、最後に総括的評価について話をする。

この記事で黒須さんは、問題指摘型、評価中心のアプローチである「small usability」と、ユーザーの価値観や感情などの影響もある満足を含めた「big usability」も視野にいれつつ、「ユーザビリティをどう説明するか」という問題を考えてらっしゃいます。

このsmall usabilityとbig usabilityの区別がきちんと頭に入っているかが重要なのですが、意外とそれがきちんと認識されていないなという印象があります

黒須さんも、

あらためて指摘しておきたいのだが、問題指摘をした直後、そこからsmall usabilityに進むかbig usabilityに進むかという大きな分かれ道がある、ということだ。この点には十分に注意する必要があるだろう。

と書いてらっしゃいますが、このスコープの明示がなされないまま、単にユーザビリティと一言で言ってしまうことは非常に危険であると思っています。

ユーザビリティをどう説明するか?:small usabilityとbig usability

さて、大分、話はそれましたが、僕は「ユーザーの利用状況やニーズを把握し、要求事項を明示する一連の上流工程に関してはどうもおざなりにされがち」だという印象をもっています。

なので、ちょっと値段ははるなと思いつつも『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』なんていう専門外の本を買ったのですが、読み始めるとやっぱり得るものがいくつかありました。

生活世界の統合的把握とは、日常的に繰り広げられ、繰り返される生活のなかに生起する人びとの具体的な行動や行為、つまりは、その「生」のありように迫ることを意味する。それは土地を基盤において「生態」と「言語文化」、「自然」と「表象」、「具体」と「抽象」といったしばしば対立するものとして語られてきた二項をおなじ議論のアリーナに出会わせる試みである。
河合香吏編『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』

最近、僕はよく「おなじ商品(ブランド)でもユーザーのコンテクストによって評価は変わりますよね」ということを、ユーザビリティやそのデザイン過程においてユーザーの利用状況やニーズを把握することの必要性について述べる際に必ず口にさせていただいているのですが、その際、ユーザーがいる物理的・精神的環境とその結果によって生じる経験=価値評価は、本来的に深く絡み合っているのであって、その部分を切り離して、それぞれを要素に分解して評価することはできないと思っています。それが上記の引用にあるような「統合的把握」が必要であることの意味だと僕は考えます。

土地や自然は、外在的な認識の対象にとどまらず、人びとにとってみずからの行為によって「生きられる世界の全体」としてあつかいうる。
河合香吏編『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』

この認識などは以前に紹介した入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』でも描かれていた、「<私>は世界に関する記述の限界」というウィトゲンシュタインの独我論にも重なってきます。つまり、それは幼児期において現実と想像の区別がないのと同じ意味で、実際には人びとは自分の意識のなかのものと外在的な認識の対象である世界を厳密な意味では区別できずに統合的に把握するしかないことを示しています。

その意味で、

ひとが生きるということは、具体であるとともに、抽象である。いいかえれば、われわれは自然環境という現実的な土地に生きるとともに、みずからがつくりあげた表象世界に生きる。
河合香吏編『生きる場の人類学―土地と自然の認識・実践・表象過程』

のです。マーケティングやユーザビリティの上流工程においては、こうした観点において、人びとが生きる世界を記述し、その世界でどう生きているのかを記述することが鍵になると思うのです。

では、それをどのようにしたら記述可能になるのか?
それがもっぱら僕の最近の興味対象で、その意味で人類学やエスノグラフィなどにも手を出しているというわけです。



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