系統樹思考の世界/三中信宏

読んだ本の書評はできるだけ、このブログに書こうと思っているのですが、たまにどうしても書評を書けない本がいくつかあります。三中信宏さんの『系統樹思考の世界』という本もその1つでした。
未来を切り開くスキルとしての他家受粉」ですこし取り上げましたが、そのときもこの際、書評を書こうと考えたのですが、結局、書けませんでした。

しかし、今日になって突然、「今こそ『系統樹思考の世界』の書評を書くべきタイミングだな」と思ったのです。

それは学問の専門性や分類というものについて書くべき必要性を自分のなかで感じたからでもあります。

ウラだと思っていたら実はオモテだった

前に『系統樹思考の世界』を取り上げたのが、「未来を切り開くスキルとしての他家受粉」という、複数の専門領域にまたがる知識欲をもったT型人間の話を書いたエントリーであったのはもちろん偶然ではありません。

系統樹のルーツをたどる旅をしていくと、人文科学や自然科学、実験科学や歴史科学、そして理系と文系というような「見せかけの壁」が縦横に乗り越えられてしまい、「錯覚の溝」はいたるところで埋められていることに気がつきます。
三中信宏『系統樹思考の世界』

三中さんはこの本のプロローグの最後に上記のように記しています。
三中さん自身は「オモテの専門は生物統計学」で「ウラの専門は進化生物学」といっています。それはエッシャーの描くメビウスの輪のように「ウラだと思っていたら実はオモテだった、オモテだったはずなのに気がついたらウラだったという程度の表裏の妙」だそうです。

この感覚は「マーケティングとユーザビリティの違いはどこにあるのか?」でも書いたように、僕自身も切実に感じるところです。ある1分野を突き止めていくと、知らない間に別の分野の表側に出てしまうことがあると思います。

いたるところにメビウスの輪があるということです。そういう擬似対立の図式は気軽に捨て去ることができると私は確信しています。
三中信宏『系統樹思考の世界』

この志向性がこの本でいうところの系統樹思考です。それはダーウィンの進化論における生物進化の系統樹のように学問のルーツを探り、進化論が人という種の生物学的特殊性を消し去ったように個々の学問の特殊性を排除するものだと感じました。

歴史学ははたして科学といえるのか?

三中さんはこの系統樹思考の旅をはじめるにあたり、「歴史学ははたして科学といえるのか?」という問題提起をされています。
そのことを考えるにあたり、「典型的な自然科学の5基準」というものを提起しています。

  1. 「観察可能」であること
  2. 「実験可能」であること
  3. 「反復可能」であること
  4. 「予測可能」であること
  5. 「一般化可能」であること

の5つです。
パッと見でもこの5つの基準に「歴史学」があてはまりにくいのは誰でも気付くことでしょう。
では、「歴史学ははたして科学といえるのか?」 生物進化学を含む歴史学は科学なのか?
これにYes.と答えるためには、科学の基準そのものを変える必要が出てくるはずです。

三中さんは典型的な科学が用いる2つの推論様式(「演繹」と「帰納」)に対する第3の推論様式として、記号論の創始者であるチャールズ・S・パースの用いたアブダクションという方法を導入することを提起しています。
アブダクションとは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」という推論方法であり、理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する方法です。

より良い説明

真偽とより良い説明の区別を、三中さんはタイプ/トークンの区別としてとらえています。

より良い説明であるトークンという形式は、まさに歴史学がそうであるように物語的性質を持ちます。それは個物間の静的な共通項やパターンを見出しタイプを判別するものと異なり、個物間の動的な関わりあいの結果として起きたコト=インタラクションを物語として記述するものです。

こうしたタイプ/トークンの区別が問題とされたり、演繹や帰納という典型的な推論様式に対してアブダクションという物語的な推論様式が現代において必要とされることが僕には感覚的に非常にわかる気がします。

それをうまく説明できなかったからこそ、今までこの本の書評を書きあぐねていた気がしますし、今でもそれをうまく説明できるかというとそうではありません。
いま現在において「より良い説明」が必要とされる理由をより良い説明として語ることはまだ僕にはできそうにありません。

「見せかけの壁」を取り払う

それでも「未来を切り開くスキルとしての他家受粉」をはじめ、「未来を切り開く力としてのチームワーク」、「サッカーチームに学ぶ5つのチームワークの鍵」で書いてきたような複合的な専門分野が折り重なりながら、人(ユーザーあるいは顧客)を対象にしてチームとしてのゴールを目指すことがさまざまな場面で必要とされる現代においては、既存の学問のタイプの壁を越えて、新たなトークンを物語っていくスキルこそが求められているはずだと感じてはいます。

それにはまず、

今の社会では(学会でも同じですが)、たとえば自然科学とか人文科学・社会科学という学問の間には大きな隔たりがあるかのような先入観が幅を利かせています。そういう「見せかけの壁」をつくってしまうのは、研究者の多くにとってはある意味では楽なことです。「見せかけの壁」の向こうのことはとりあえず知らなくても日々の仕事は進められますから。
三中信宏『系統樹思考の世界』

といったような専門領域の「見せかけの壁」を取り払うことが必要なのではないか?

専門領域を分類するにしても、単に領土の取り合いのように平面的に境界線を区切って色分けするようなやり方ではなく、系統樹的な歴史を含む分類法により個々の分野の関連性も含めた分類を心がけたほうがよいように思います。そうでなければ、メビウスの輪にはまったエッシャーのネズミ達を自由な世界に解放してあげることもできないのではないか?

他人に興味をもち、その人の歴史を語れるようになれるか?

結局、それには個々の人々の歴史に目を向ける感性が必要になってくるのではないかと思います。

単に目の前の相手を専門領域で判断するような愚をおかさず、その人がたどる歴史という物語を過去、現在、未来として読み解くような「より良い説明」を模索すること。そうした姿勢が求められるのではないか。
他人の物語を語れるようになるということは、それだけその人のことを知るということです。そういう他人に対する興味も持てないようであれば、トークンをベースとした語りの学問は成り立ちません。

それには当然、自分の側も単に自分の専門領域に限定した目だけしかもたないのではまるで役に立ちません。むしろ、自分と関係のない領域を「そこには自分とは違う人がいる」「自分とは違う人々の暮らしや歴史がある」のだという意識をつよく持って望むことのほうがより重要なのではないか。

「真偽」があるという物の見方だけでなく「より良い説明」はどのように語ればよいのかという人の匂いがする推論様式が今後の学問、研究においては必要になってくるのではないかと思うのです。
それはすくなくとも研究室に白衣を着てとじこもって同じ分野の人との交流だけをする姿勢ではうまくいかず、むしろ、他分野の研究者、いや、研究者ですらない他の人々との交流がいかにできるようになるかということが重要なポイントではないかと思うのです。



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