この本、「【見る】ということとはどういうことか?」について非常に考えさせられる内容です。値段は高いし、分厚い一冊ですが、ぜひ一読をオススメしたい本です。

読んでいて考えさせられるのは、描くことと思考することの関係性や、想像することと見ることの関係性です。
ガリレイが実際に手で絵を描くことで考え、頭のなかでしっかりと想像する=仮説をもつことではじめて誰もそれまで見ることができなかったものを見ることができたのだということが、この本を読んでいくとわかってきます。
そこには描かなければ可能にならなかった思考があったし、思考をもとに想像しなければ目にすることができなかった事実がありました。そういうことをこの本を通じて知ることで、あらためて見ることや描くことや考えることの意味合いを考え直させられています。
たとえば、ガリレイは望遠鏡を使って月の表面にデコボコ=クレーターがあるのを発見したことで知られています。
これを、単純に、望遠鏡のおかげでそれまでよりも月を大きくみることができるようになったから、ガリレイはクレーターを発見できたのだと考えてしまうのは、実は間違いなのです。
僕らが考える以上に、いままで見えていなかったものを見るということは簡単なことではないようです。
ものを拡大して見る道具(=望遠鏡)が発明されたからといって、それまで見えていなかったものが急に見えるようにならないようです。想像さえしていなかったものは新しい道具が登場したからといってそう簡単には見えないし、そこに存在するはずもないものが目の前にあらわれたからといってそれがそこにあると人は認めることができないようです。
具体的にはどういうことかを、このあと、すこし紹介してみましょう。
デコボコの月を見る
実際、月の表面を望遠鏡を使い観察したのは、ガリレイがはじめてというわけではなかったそうです。画家のアダム・エルスハイマーや、イギリス人地図製作者トーマス・ハリオットなど、ガリレイ以前にも望遠鏡を通じて月の表面を見た人はいたのですが、残念ながら彼らの眼は、後にガリレイが見たような月のデコボコを見出すことができなかったのです。
イギリス人地図製作者トーマス・ハリオットもまた、おそらくその直後1609年8月5日に月を観察したようだが、目視情報を然るべく観察することができなかった。彼が眼にしたものは一葉のスケッチとして残されているが、光の当たった領域には何か不分明な断片的現象が示されている。ホルスト・ブレーデカンプ『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』
ハリオットはガリレイとほぼ同時期に月を望遠鏡で観察し、その結果をスケッチに残しています。
けれど、そのスケッチにはガリレイが月の表面に描いたようなデコボコによる影は描かれることがありませんでした。

▲ハリオットが描いた月のスケッチ『芸術家ガリレオ・ガリレイ』
「それゆえ疑問が湧く」とブレーデカンプは言います。
「なぜ、ガリレイがその直後に現象の本質として明快にとりだせたものを、ガリレイの先行者は分かりやすく強調できなかったのか」と疑問を投げかけます。
「簡単に説明してみれば…」ではじまるブレーデカンプの1つめの答えは「ハリオットの6倍望遠鏡がガリレイのものより性能が悪かったということがあるかもしれない」と、ガリレイの10倍望遠鏡の性能に理由を求めるものです。
けれど、ブレーデカンプ自身、その答えに満足せずこう続けるのです。
ヤン・ファン・エイクとレオナルド・ダ・ヴィンチがハリオットよりも月の正確な像を提供できたのは、公平無私に見るよう訓練された眼を持っていたからである。こういう事実を前にすると、現象認識を決定するのは、器械の性能などではなく自然観察と予見との相互干渉なのだという印象を強くする。ホルスト・ブレーデカンプ『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』
正確な像を見るためには、ありのままのものを公平に見るよう訓練された眼がなくてはいけない。
それがなければ目の前にあるものも見落とす可能性は高い。何かそれを見落とさせるようなフィルターがある場合は特に。
完璧に滑らかな表面をもった月という観念のフィルター
月面のクレーターを見落とさせるフィルターとして働いたのは、月の表面は滑らかでつるっとしているという長く人びとに受け継がれてきた観念でした。ガリレイが月にデコボコがあると認めるまで、中世が終わりルネサンス期を通過してなお、人びとは月は滑らかでデコボコがないからこそ、コスモスのハーモニーの完璧な姿とみなしていたのです。
その月の表面は「滑らかである」という常識的な観念が予見となり、ハリオットのような先行者の眼から実際に見えているはずのデコボコを隠したのでしょう。
その一方で、ヤン・ファン・エイクやレオナルド・ダ・ヴィンチのようなガリレイなどより前の時代を生きた画家たちの優れた自然観察眼には望遠鏡の力を借りずとも、滑らかでない月の表面がぼんやりながらちゃんと見えていたのです。

▲ダ・ヴィンチによる月のスケッチ『芸術家ガリレオ・ガリレイ』
つまり、モノが見えるかどうか=モノを認識できるかどうかは、単純に眼やそれを強化する道具の能力だけの問題ではなく、頭のなかの思い込みと現実に目の前に存在するものとのギャップにどう折り合いをつけられるかということなのだと思います。
結局、物事を見て認識するというのは、どのような形で世界を抽象化して捉えるかでしかありません。
光として眼に届いていたとしても、抽象化の段階でその光に内なる眼を閉ざしてしまえば、物事は認識できないということなのでしょう。
その内なる眼を閉ざさないようにするためには、実際に見る前に、いま見えていないものを見えるようにするための思考力、いま認識できていないものを仮説として想像する思考力が不可欠なのでしょう。
ようは、考えない人にはいま見えているもの以上のものは見えないということなのだと思います。
月のデコボコを描く
そのことをさらに裏付けるものが、ブレーデカンプが次のように記述するガリレイが使った望遠鏡の能力とそれを補うガリレイの方法の関係のなかにあります。彼の望遠鏡の拡大能力では、月の全身を観察するわけにはいかなかった。月表面の4分の1ほども視界を得られず、全体像を導き出すためには、内部の眼差しがあるかどうかが特別の問題だった。ガリレイが全体像を生み出すことができたのは、望遠鏡を覗いた時ではなく、素描によってである。素描はイラストでも補助資料でもない。掛け値なしに認知の必須メデイアなのである。ホルスト・ブレーデカンプ『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』
ガリレイは望遠鏡を通じてみた月の表面を何枚も何枚もスケッチを残しています。
最初のものは1610年の1月7日の書簡に残した9枚の連続画でした。ハリオットのスケッチから約4ヶ月後のことです。
そのスケッチには、以下のように三日月型に地球の影になった部分と、表面のデコボコゆえに影になった部分が丸く月の形をなかにハリオットのものとは比べられないほどリアルに描かれています。

▲ガリレイが描いた月のスケッチの写し『芸術家ガリレオ・ガリレイ』
けれど、ブレーデカンプが指摘するようには、実際にガリレイが望遠鏡を覗いた先に見えていたのは、その4分の1以下でしかなかったというのが驚きです。ガリレイは、結果として描かれたスケッチのような月の全体像を目にするためには、まさに自分で描き上げたそのスケッチを見るしかなったのです。
つまり、このことから言えるのは、ガリレイは見たものを描いたというよりも、見るために描いたということでしょう。
見る-考える-描く-認識=現実化することの一連なり
描くことではじめて自分が見たいものを見ることができる。前に一度でも全体像を眼にしたことがあるものであれば、頭のなかの想像だけでもイメージすることができますが、まだ一度も眼にしたことがないものなら、一度眼に見えるよう視覚化してみないと想像もうまくつかないはずです。つまり、それはうまく認識できないということにほかならない。だから、見えていない目の前にあるものを認識するためにガリレイはまず描くということをしたのでしょう。
これはイノベーションを生み出さなくてはいけない場合と酷似していることにお気づきでしょうか?
イノベーションはそれが起こる前では、すくなくとも全体像が見えない。それを想像するためにはガリレイがスケッチを描いたのと同じように、実証実験的なプロトタイピングで視覚化してみないといけません。
見えているものを描くのではなく、見るために描くこと。
それがガリレイによる月のクレーターの発見における本当に必要な能力だったはずです。
それに比べると、望遠鏡の力というのはサブ的要素でしかなったとも言えます。
見えてないものを描くことで見えるようにするという視覚化能力のほうが、単純にモノを拡大して見えやすくするという視覚化の能力よりも、物事を見えるようにする=認識できるようにする上では重要なことなのだと思います。
そして、このガリレイの「見ること」-「考えること」-「描くこと」-「認識=現実化すること」を連動させる実践的な思考力はまさにいまのイノベーションの時代にも強く求められていることであると思うのです。
見ること、考えること、現実化することの本質ってまさにこのへんにあるはずです。
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