多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀

いま会社の班活動で「図」に関する研究活動をしています(会社で班活動って何?という方はこちらをご覧ください)。



上の写真のようにいろんな種類の図を集めて、それを分類したり、分類ごとの特徴を抽出したりしました。次のステップでは、自分たちでも図を使って自分たちの考えをうまく伝えられるようになることを目指して活動しています。

そんな班活動のために図を集める作業をしていた際、以前から気になっていたアタナシウス・キルヒャーのことがあらためて気になりはじめました。
お目当ての図を探そうと検索していると、やたらとキルヒャーの著作に掲載された図が出てきたからです。

それもあって、いまジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読みはじめました。読みながら、キルヒャーの生きた17世紀ってまさに図の誕生の世紀なのかなーなどと考えています。
今回はそのあたりの考えをまとめてみようか、と。

多義な絵から一義の図が分岐した17世紀

班の活動では、最初に図について考えるにあたって「図って何を指しているの?」という点を明らかにするために、図と似ているものとの比較を行いました。図と表を比べたり、図とピクトグラムの違いは?と考えたり。

そのなかで、図と絵の対比もしました。
そこで考えたのは、図は1つのことを説明するもの、つまり解釈は1つであることが望ましいのに対して、絵はそもそも多義的な解釈を許すものということ。

実は、この多義を許す絵から一義であることを目指す図が分化したのが17世紀なのだろうなと思っているんです。


▲ジョスリン・ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』より

上の図とも絵ともいえる視覚表現は、まさにキルヒャーの著書に掲載されている図版です。
ゴドウィンによれば、キルヒャーの思考は起源を遡行することで物事の謎を解き明かそうとする傾向のものが多かったようですが、この図版もアダムへと遡る人間の変遷を示した樹形図です。
いわゆるファミリーツリーなわけですが、いま、よくあるような抽象的な矢印による分岐で表された樹形図ではなく、リアルな木の絵の上に要素が載せられているうえ、木の根本にはアダムとイブ、そして、ご丁寧なことにイブをそそのかして禁断の果実を食べさせた蛇まで描かれています。

この時代の本に掲載された図には、こういう抽象化の度合いがまだまだで絵から分岐しきれていないものが多いように感じます。

例えば、1601年から1680年まで生きたキルヒャーよりも、すこし早く生まれた英国の薔薇十字研究者にして錬金術師であったロバート・フラッド(1574-1637)が著作『両宇宙誌』に掲載された、下の図版などもその1つ。

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あとは、このブログではたびたび紹介していますが、オレ・ウォルムの「驚異の部屋」を描いた1655年の図版も、いまの美術館のカタログやフロアマップ的な意味合いをもつものですが、以下のように抽象化はしきれないまま具体的な表現の図版になっています。


▲オレ・ウォルムの「驚異の部屋」(Wikipedia「驚異の部屋」より)

これらの図版は、僕らがいま慣れ親しんでいる、きっちりと抽象化されることで一義な解釈をもたらす「図」に比べると、まだ多義的な解釈が可能な「絵」に近いように感じられます。絵から分裂しはじめた図は、その初期段階ではまだ絵から完全には慣れていないと。

ここで確認しておくべき大事なポイントは、17世紀のこの時期、こうした説明的な図版がそもそも登場してきたのは、本というものが印刷され出版され流通するようになったから、という点です。
印刷されて多くの人に流通する本に掲載するため、わかりやすく情報を伝えるための図が必要になったのです。

マクルーハンが「最初の大量生産品」と呼ぶ印刷本によって、この時代にはじめて多くの人が同じ意味をもつ図を同時に所有できるようになったのです。その同じ商品を複数人が同じように所有できるという変化自体が、人びとに同じもの=1つの意味をもたらす要因となったはずなのです。

多義から一義へ

そういう意味で「多義な絵から一義な図へ」ということを考える上では、この印刷本=活字の普及というところが非常に大きいわけです。

ここでは、大量生産品としての印刷本が普及する前は、本といえば1つ1つ手作りするしかない写本という高級品であったわけで一般の人が所有できる類いのものではなく、情報の共有といえば、もっぱら文字ではなく話し言葉によって行われていたということを思い出す必要があります。

そのことを考える上で、高山宏さんが『近代文化史入門 超英文学講義』書評記事)のなかで紹介する、17世紀におけるシェークスピアの演劇上のせりふから活字での読む台本へと変化をみてみるとよいでしょう。
この時期に、シェイクスピアは舞台の上で声をかけあう舞台芸術から、活字を目で追う文学になっていくのです。

1623年までシェイクスピアの芝居は、活字で読むことができなかったといいます。

役者には各々のパートのせりふが渡されており、例えば、ハムレット役の俳優は、同じ舞台に登場するオフィーリア役のせりふを文字で読むことはできなかったそうです。
つまり、僕らが当たり前に想定してしまうようなすべての俳優のせりふが一覧できるような一貫した台本は存在しなかったということです。全体を把握しようと思えば、実際に演じられる舞台をみて俳優のせりふを聞くことで自分の頭のなかで再構成するしかなかったわけです。

しかし、そんな風に全体が把握できることを想定すること自体、実は活字や図版といった視覚的表現で全体を一望する手段を手に入れた印刷本以降の僕らだからの思考です。そもそも全体を一覧するなんて経験自体をもたなかった話し言葉中心の文化のなかで生きた人びとにすれば、その都度、耳に入ってくる情報に対して自分がどう反応するかが重要だったはずです。
僕らがすべてを目にできるような俯瞰的な視点をもつと同時に、ある意味、情報が躍動している場から切り離された客観性・傍観者性をもつのだとすれば、話し言葉社会にある人は俯瞰的視点がもてない代わりに常に状況に参加していて、その状況に巻き込まれ影響を受けたり与えたりしていたのだと思います。

ただ、そんな風に演劇の場に参加した人びとそれぞれが、劇が演じられる場から各々自由な影響を受けた状況では、とうぜん受け取られる意味は多様だったはずです。
つまり、一義ではなく多義だった。

アイ・アム・トゥー・マッチ・イン・ザ・サン

しかし、社会はまさに演劇的なものから活字的なものへと移り変わりはじめていました。シェイクスピアの演劇は、その没後にピューリタンたちに「あいまい」といわれ、痛めつけられはじめます。

そんな事情を高山さんは『近代文化史入門 超英文学講義』で紹介してくれています。

そのあいまいさを説明する場合に『ハムレット』の冒頭の部分が最もよく引用される。
ハムレットは、父親がおじに毒殺される。が、毒殺の証拠はない。そして、そのおじがハムレットの母親に求婚し、母親はそれを承諾してしまうという設定で物語がはじまる。
冒頭で、ハムレットはふてくされている。黒い服を着ているらしく、おじに、おまえはいつまでビナイテッドな服(夜の服=喪服)を着ているのだ、そろそろ喪もあけるし、着替えなさいといわれる。さらに、みんながこれだけなごやかに打ち解けて話しているときに、肝心の王子であるはずのおまえは今までどこにいたのかと聞かれる。
そこでハムレットの有名なせりふ、「アイ・アム・トゥー・マッチ・イン・ザ・サン」となる。

『ハムレット』が書かれたのは1601年。先にシェイクスピアの芝居が活字で読めるようになったのは1623年と書きましたが、まだ、そのときが来るまで22年の猶予があります。つまり、『ハムレット』は耳でしか体験できないものだった。その上での「アイ・アム・トゥー・マッチ・イン・ザ・サン」です。

観客たちの反応は、さまざまだったにちがいない。「サン」をsunと聞いて、「あまりにも日向に長くいた」という意味にとる人もいるだろう。too much in the sunを「気がふれて」と、熟語的に理解する人もいるはずだ。
一方、ハムレットの即くべき王位をおじが無理やり簒奪したことを、正当の後継者であるべきハムレットが当てこすっているはずだと思い、sunではなく、son(息子)と解釈し、「おまえおかげで、いつまでも息子の立場でいなきゃいけない」という怒りを表現したと感じる観客もいたはずだ。

活字でみれば、sun と son は区別できます。しかし、耳で聞けば、その違いを区別することはできなくなります。おそらくシェイクスピアはその多義性を考慮したうえでせりふを決めたのでしょう。
けれど、その多義性のもつあいまいさを嫌ったのが、英国王立協会に集まったピューリタンの科学者たちでした。彼らはあいまいさをもつシェイクスピア演劇を抹殺しようとします。

誤解を容認するようなコミュニケーションは駆逐せよと主張したのが、ピューリタンの数学者たちからなる王立協会である。
シェイクスピア研究をする者で、シェイクスピアを抹殺した王立協会のこういう活動をきちんと論じた人がいないということに、僕は呆れはてた。
シェイクスピアがなくなったのが1616年。その後30年ほどして、劇場封鎖令が出された。

17世紀というのは、まさにこういう意味において多義から一義へという移行が行われた時代でした。

17世紀におけるキルヒャーの特異性

僕は図の登場はこういう観点からとらえることが大事だと思っています。

バーバラ・M・スタフォードが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』のなかで、"要するにイメージというものは、情報を一度に小空間にディスプレーしながら、それをミニチュア化し、圧縮し、組み合わせる力を持っている訳である"と書いていますが、この視覚的イメージがもつ力を大量生産品である印刷本によって、大量にばらまくことで同じ1つのイメージ=同じ1つの意味をはじめたのが17世紀という時代です。

そんな17世紀を生きたのが、イエズス会の司祭であったアタナシウス・キルヒャーでした。
そう、ピューリタンたちと激しく争ったカトリックのイエズス会というあたりがここでのポイントでしょう。

キルヒャーは司祭であると同時に、
  • 初期バロック音楽に関する研究者であり
  • 地質学の父ともいわれ
  • 伝染病がなんらかの微小生物によって引き起こされることを最初に実証的に示した人であり
  • エジプトのヒエログリフの読解に取り組んだパイオニアで
  • 極東から寄せられる報告をもとに東洋研究を行った人物であり
  • 王侯・貴族が供覧するための幻燈や磁石玩具の設計者でもある

などなど、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチにも匹敵するといわれるほど、多岐にわたる分野に通暁した人物でした。



ヨハネス・ケプラーやルネ・デカルトが年上の同時代人で、アイザック・ニュートンやゴットフリート・ライプニッツが年下の同時代人です。ちなみにニュートンは先の英国王立協会の協会理事長も努めています。
この顔ぶれをみても、17世紀がどういう時代だったか、イメージが膨らみますよね。

ただし、僕らの側からこれらの顔ぶれをみて思い浮かべるイメージと、実際の彼らの横顔はすこし違っていたはずです。それをジョスリン・ゴドウィンは次のように指摘しています。

キルヒャーの時代の科学は、なかば魔術的なものをとどめていた。「神意」がいかにはたらくかを見抜くことだけが科学の目的であったのだ。キルヒャーを駆り立てたのはこのような壮図であったし、それはキルヒャーの同時代を生きたケプラーからニュートンにいたるまでの科学者たちに、ひとしく共通する到達目標であった。

17世紀はいまだ魔術と科学の境があいまいだった時代です。フランセス・イエイツが『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』書評記事)のなかで書いているように、「魔術(マギア)とカバラと錬金術(アルケミア)」を原動力に独自のユートピア思想を展開した薔薇十字団に影響を受けたのは何も、先にも名前をあげてロバート・フラッドのような錬金術師だけでなく、デカルトやライプニッツも影響を公言していたし、さらには薔薇十字団の名こそ出さないまでもフランシス・ベーコンやニュートンもその影響下にあるのは明らかだったのが、魔術と科学が分離する前の17世紀という時代なのです。

しかし、同時に、魔術と科学のあいだに境が生まれようとしていたのも17世紀です。多義から一義への移行がはじまったのと、それはきっちりとリンクしていたのです。

とはいえ、17世紀といえばひとの意識にふたとおりの亀裂が生じはじめた時期である。それはその後、深まる一方の亀裂であった。まず哲学の分野では、確実さと法則性とが支配する客観的な物質世界と、もっぱら内的事象である心の主観的世界とのあいだに分裂が生じた。それに呼応するように、文化の面では、予測可能な物質世界を領分とするそとになった諸科学と、魂の領域、すなわち意識や願望、さらにはすべての宗教の名に値するものなどの、量でとらえるこののできない神意に発する領域を扱う諸学芸とのあいだの懸隔が生まれた。

この亀裂とは無縁だったのがキルヒャーだったといいます。
キルヒャーはその生存中に、大宇宙と小宇宙のすべてがきれいに円環のなかでつながっていたルネサンス期までのエンサイクロペディズムが、近代的に特殊に専門化したバラバラの知識領域に屈することを見ることになります。それは同じ17世紀を生きた詩人のひとりであるジョン・ダンが「新しい哲学はすべてを疑わせる」と円環の破壊を嘆いたのとリンクします(参照「円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン」。)

地球が宇宙の中心にはなく、宇宙の一片の屑でしかないことを知ったからといって、われわれはそれだけ賢明に、それだけ善良になっただろうか。(略)太陽を中心に置く世界体系は、人間の生命がその周囲を回転している内なる光明の新たな象徴として理解することもできただろう。またコペルニクスによるその再発見を大小両宇宙が照応していることの証左として理解してもよかったはずである。ところが近代人はそうすることを拒絶した。近代人が希望ももてず疎外されていると感じるのはむりもない。見上げるたびに太陽が東から西に天翔るのを目にすることができるような、地球を中心とする有限の宇宙にあって、彼がたっていたその場所を掠めとられたのだから。

図解に全体を自由に俯瞰する視点をもつことと引き換えに、僕らはおそらく対象といっしょになって内から見るという眼を失ったのでしょう。それはシェイクスピア演劇を参加しながら観ることから、それを離れた場所から読むことにシフトしてしまったのと似ています。

キルヒャーは、演劇的な場所を立ち去ろうとはしなかった。
だからこそ、キルヒャーの著書に描かれた図版は、いまだ多義的な絵と分離しきれていない図という様相を示しているのでしょう。多義的であること、それは象徴的思考を維持したままの思考なのでしょう。それは僕らのような対象から疎外された分析的思考とは異なっているはずです。その思考のなかでは、あえて「自分ごと」などを意識しなくても、あらゆることが自分ごとでしかなかったはずです。
いま、求められているのが、このキルヒャー的思考の復権であるのは間違いないのではないでしょうか。

  

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