レオナルドは未来である:オルタナティブを考える力2

書評エントリー「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣/茂木健一郎」や「創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる」というエントリーですでに2回も取り上げた茂木さんの『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』という本ですが、明日、同僚に貸すことにしたので、最後にもう1つだけエントリーを。

源流に戻る

道に迷ったら、迷う前の自分がちゃんとわかって歩いていた地点まで戻れというのは、ある種の鉄則の1つです。
それは実際の道でなくても、同じであるようです。

現代の文明は、ある種のゆきづまりを見せていると思いますが、このゆきづまりを打破するために、それが生み出された源流であるルネサンスに戻ることも、ひとつの方法としてあり得ると思います。

レオナルドが生きたルネサンスはデカルトに端を発する「心身二元論」の以前です。

ジョン・R・サールの『マインド―心の哲学』やジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』などの最近の認知科学、脳科学系の本を読んで感じられるのは、現代の認知科学はすでにデカルトの「心身二元論」を乗り越える術を見つけつつあるという点です。

また、おもしろいのは、そうした認知科学という学問の分野自体、神経学、精神分析、行動主義実験心理学、認知心理学、言語学、人工知能、哲学を含む学際的なマトリックスであるという点です。
それはレオナルドが生きたルネサンスの時代において、まだ諸科学が未分化であったことを想起させます。レオナルド自体、画家であると同時に、人体の解剖を行いその解剖図を描いたり、「ヘリコプター」や「人工翼」の設計図なども描いたりしていて、その才能の向かう方向は多岐に渡っていますし。

ルネッサンスは古代文化の復興とともに、中世における神(キリスト教)の支配から人間の解放が目指された時代です。それと同じように現在の認知科学が目指しているのも、機械論的な科学への信仰から解放された形で、人間そのものや還元主義的方法では解けなかった自然の謎へと興味が移っているように素人ながら感じています。

その意味で最近の認知科学の動向からは、ルネサンス期の源流への回帰とも思えるベクトルがみてとれるのではないでしょうか。

レオナルドは未来である

前に「言葉の意味とは?:オルタナティブを考える力」というエントリーを書きました。

そのエントリーも茂木さんの『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』という本に触発されて書いたエントリーですが、そこで「人と話をする際には自分がイメージしたのと異なるオルタナティブを考える力がすごく必要」と書きました。
ようは自分の当たり前という壁の外に出る力、外に出ようとする意欲が必要だと思うのです。

自分たちがいかに時代の限定のなかに生きているか、自分ではなかなか気づきにくいことです。ほとんどあらゆる仕組みが近代合理主義を前提としてつくられている社会で、近代合理主義の枠をとりはらってものを見るのは、ひじょうにむずかしいことかもしれません。

僕は、時々、無性にニーチェの著作やニーチェに関する解説書を読みたくなるときがあります。それはニーチェの著作が近代合理主義の只中で遠いギリシアを夢想するものだからだと思っています。
僕にとってニーチェは「オルタナティブを考える力」を充電するためには打ってつけの存在だったりします。

しかしわれわれは、いったんレオナルドの地点まで戻らねば、この現代のゆきづまりから、さきに進むことができない段階にあるのではないでしょうか。

ニーチェがギリシアを夢想したように、レオナルドの生きたルネサンスもまた中世を隔てたギリシアの時代を復興しようとした時代です。
茂木さんが現在から源流であるルネサンスを見る見方は、ルネサンスがギリシアを見た見方に重なるように感じます。

そうした意味で、私は、レオナルドは過去ではなく、「未来」だと思っています。

ルネサンスがギリシアという源流に立ち返ることで「未来」を切り開いたように、確かにレオナルドという源流に立ち返ることでしか、僕らの「未来」は切り開けないのかもしれない。

実は、この本を本屋で見つけて手に取ったのは「天才」という言葉に惹かれたからでも、茂木さんの最新刊を読みたいからと思ったからでもありません。

この本で何より惹かれたのは、サブタイトルの「ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」と言葉が醸し出す、認知科学的な諸科学の複合的マトリックスや創造性につながる他家受粉にも通じる「何か」が感じられたからです。

それは具体的には「レオナルドは未来である」という言葉で表現される、源流としてのルネサンスなのかもしれません。

その意味では、いま読んでいるハンス・ドリーシュの『生気論の歴史と理論』も、アリストテレスの生気論から歴史をたどり、19世紀においてすでに主流であった機械論と真っ向から対立する新生気論を導くまでを綴っていて、同じような意味で感銘を受けています。

Webやマーケティングのことを考えるのももちろん仕事なので重視していますが、それだけに小さくまとまったら、何も新しいもの、「未来」は生み出せないなと常々思っています。
こうした仕事以外のオルタナティブに目を向ける活力を失ったら終わりだなと思います。

   

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