創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる

昨日紹介した茂木さんの本『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』の中で、「創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる」と茂木さんが書いているということは、昨日のエントリー「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣/茂木健一郎」でも紹介しました。
ただ、ちょっと紹介しきれない感が僕のなかであるので、補足のエントリーを。

前提:創造性は一握りの天才の特権ではない

まず、この話をする際の前提として書いておかなくてはいけないのは、茂木さんが『脳と創造性―「この私」というクオリアへ』という本の中でも書いているように、「創造性が一握りの天才の特権である」というような手垢にまみれた誤解を脱神話化させることが大事だということです。

人間の脳の特性という視点から見れば、これらの「天才たち」のやっていることと、私たちが日常普通にやっていることの間には、本質的な差はないとも言える。天才たちも、普通の人々も、「それまでになかった新しいものを生み出している」という点においてはあまり変わらない。早い話が、コンピュータと普通の人の脳の差に比べれば、普通の人と「天才」の脳の差など、ほんのわずかなものでしかない。

そう。きっとここで一般的な比較の図式を変える必要があるんです。

僕らは普段、なにかの専門家や偉い先生の話に感心して、自分とその人たちとの差を必要以上に感じてしまうことがあります。
しかし、そこにある知識量の差なんて、実はインターネット上にある膨大な知識量、情報量の差と比較すれば、あるのかないのかわからない程度のものでしかないはずです。

現実にあるその巨大な差を見ずに、たかだか知れている偉い人と自分の差に固執してしまうのがそもそも現実を見ていないのだと思います。
いまや情報や知識はどんどんコモディティティ化している。そのコモディティティ化した情報や知識を本当の意味で誇示できるくらいの量を確保しているのは、もはや偉い人や知識人ではなく、コンピュータやインターネットです。
僕らは他人との比較ではなく、この比較をこそ直視しなくてはいけないのだと思います。

IDEOの方法論は「過去の経験」の量を意図的に増やす

奥出直人さんは『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』の中で、こうした知識がコモディティティ化する状況において「世界のビジネスシーンでは、知識や生産性に代わる大事な経営資源として創造性を活用する動きが登場してきている」と書いています。創造性はもはやビジネスにおいても、組織的なリソースマネジメントの対象として認知されはじめているということです。

そして、奥出さんは、ビジネスにおける創造性の活用の方法の核に「デザイン思考」があるといい、IDEOなどの方法論を紹介しています。

そのIDEOなどの方法論とは、このブログではすでに何度も紹介してきたように、街にフィールドワークに出て直接人々を観察したり話をしたり、膨大なプロトタイプをつくってそれについてブレインストーミングを繰り返すという方法の中にあります。一部の専門分野の知識にこだわることなく、他の分野からの他家受粉を奨励し、積極的に外部の人々と関わっていく。

そうした方法論は、以下の茂木さんの言葉とも共鳴します。

創造性の本質には、他者とのコミュニケーションが深く関わっている。コミュニケーションのスキルを磨くことなく、ペーパーテストで他人と競争することばかり奨励してきた従来の学校教育が、創造性を育むという視点からは遠いものであったことは当然のことである。(中略)個人の独創性の神話に依拠した知的財産権の保護が、運用次第では創造的プロセス自体を殺しかねない理由がここにある。

創造性が「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができるのだとしたら、これはある意味、当然のことように思えます。

ペーパーテストと教科書や参考書による勉強を繰り返すことよりも、はるかに他者とのコミュニケーションのうちで学ぶほうが、そこから得られる「過去の経験」の量ははるかに多いはずだから。
同じようにIDEOの方法論における、フィールドワーク、プロトタイピング、ブレインストーミング、他家受粉という手法も「過去の経験」の量を意図的に増やすものにほかなりません。

IDEOの方法論は「過去の経験」の量を意図的に増やす

他人とのコミュニケーションを行っていく中で、僕たちの脳は「それまでになかった新しいものを生み出している」。
もちろん、それは本やインターネット上に存在する知識を学ぶことでも起こるものです。しかし、それ以上に予測がむずかしく、自分の側からのみのコントロールがほぼ不可能な他人とのコミュニケーションでは、本やインターネットから得る以上の予想外の経験が得られ、その経験の中で「それまでになかった新しいものを生み出」されるはずです。

過去の経験によって得られた情報の量が多ければ多いほど、創造性を発揮できる潜在能力が高いということになります。
でもそれだけではだめで、私はかねてより、創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる、と主張しています。

そう。創造性には、過去の経験と同時に、何かを成し遂げようという意欲が大事です。
その意味で、個々人に「自分には創造性がない」と思い込ませてしまうと同時に、意欲さえ奪ってしまう現在の風潮は困ったものです。

他人との競争の中、自信を失い、自分には創造性どころか、そもそも能力はないのだ、と思いこんでいる人たちも多いのではないか。そのような思いこみを捨てることからしか、自らの中に眠る創造性を解放するプロセスは始まらない。

しかし、こうした思いこみを断ち切るのは、個人の問題でもあるでしょう。個人が自分自身で変わらないといけないし、まわりに対して変わっていかなくてはいけないのだと思います。
とにかく自信を持たないといけないし、まわりが自信をもてるようサポートしてあげることも大切でしょう。

他人の行動を真似て学ぶ

その意味ではルーチン作業のように、同じことを同じように繰り返していても「過去の経験」は増えないんだと思います。それは創造性という観点から見れば時間の浪費です。

同じことをやる必要があれば違う方法を試みたり、同じ方法でやる必要があれば違う対象を探すなどの工夫で「過去の経験」を増やす努力が必要なじゃないでしょうか。

工夫するってことは大切なことです。
自分が一度行ったことはその一度だけ行うようにする工夫が必要です。

他人の行動を真似て「過去の経験」を増やす工夫

また、もう1点。「過去の経験」を増やすという意味では、誰かの経験を意図的に真似てみるという工夫も有効です。

もちろん、他の人の経験そのものを完全にコピーすることはできませんから、あくまで外から見てその人が行ったであろうことを真似するということになります。それでも他の人の行動を真似ることで自分自身ではなかなか行わない行動を実際にやってみることで、普段とは違った経験をするというのは「過去の経験」を増やすという意味では有効です。

いわゆる守破離において、最初に守る=真似るが来ているのと似たような意味なんでしょうね。型を守ることから未知の行動を身体にさせて、それで未知の経験を意図的に学ぶということなのでしょう。

守る、真似る、学ぶ、です。

ブレインストーミングを行う企業文化

そして、僕がいま創造性を育むということで何より大事なんだろうなと思っているのが、組織がブレインストーミングを行うという文化をもつことだと思います。

ブレインストーミングにおいては、アイデアの質より量が求められます。
参加者との決められた時間内にできるだけ多くのアイデアを出していくという脳の使い方は、実は普段ほとんど行っていない使い方ではないかと思います。

ブレインストーミングにおいては他人のアイデアに対してネガティブな意見を言うことは禁じられています。頭を使う際にネガティブな意見を言うほうが、ポジティブな意見を言うより簡単です。ましてや、まったく新しいアイデアを出すことはより大変なことです。
0から1を生み出すのに比べれば、1を10にすることは簡単なことです。
ましてや1に対して文句を言うことなど、この上なく簡単ですが、それが創造性という視点で意味があるかというと甚だ疑問です。

こうした普段使っていない脳の使い方ができるブレインストーミングが企業文化として根付くことで、その組織の創造性は格段に増すのではないかと思います。
ただ、この点に関しては自分がいまだそうした環境に身を置いたことがないので、あくまで想像の範囲ではあります。
しかし、文化として浸透している環境にいたことはなくても、スポット的にそういう状態が生み出された場に身をおいた経験から想像すると、あながち間違った想像ではないだろうなとは感じています。

とにかく最近はなんとかして、創造性を高めていく、その力の捻出速度を加速していく方法はないかとばかり考えています。
それくらい大事なことだと思うんですよね、創造性って。

考えるべきことは、過去の経験量をいかに増やすか/増やしてあげるか、創造に対する意欲をいかに持ち続けるか/持ち続けさせてあげられるか、という点なのでしょう。

   

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