セレンディピティと創造性:正しいやり方など存在しない

成果を出せない人は正しいやり方を探そうとします。何か成果を出すための方程式が何かがあると思って、それを必死に見つけようとして、時には間違った方程式に無理やり素材を詰め込んで、アウトプットを見て「なんでうまくいかないんだろ?」と言ったりします。

でもね、うまくいかないのは、正しいやり方があると思い込んで、それに頼ろうとするからなんです。

道具より使いよう

このブログでも、思考ツールはたくさん紹介してきました。

シックスシグマのSIPOCダイアグラム戦略マップ3C分析や5W1Hなどなど。

それらは道具としては有効ですが、使い方を間違えればただの道具なので役に立たないことは当然あります。また、それは正しい答えを出すための方程式でもなんでもないので、やたらとそれに詰め込んだところで、何にも出てくるはずはありません。

バカとハサミは使いようといいますが、大事なのは道具ではなく「使いよう」です。
そして、「使いよう」とは使い方のことではなく、何をするために使うのかという意志のことです。

プロトタイプ思考

欲しているものを見つけ出そうとするなら、正しいやり方なんかにこだわらず、とにかく欲しいと思っているものの絵を描いてみることです。

メモをとる癖」でも紹介しましたが、僕はコピー用紙の裏紙にとにかく思いついたことを描きながら、求める答えを見つけるようにしています。
その際、SIPOCダイアグラム、戦略マップ、3C分析、5W1Hなどなどを使う場合もありますが、基本的には思いついたことをいたずら書きするんです。

いたずら書きし、図面を引き、モデルをつくる。とにかくアイデアを絵にし、モノをつくることだ。そうすれば、偶然の発見に遭遇しやしい。要するに、基本は遊ぶこと、そして境界を探検することだ。
トム・ケリー『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』

そう。偶然の発見に遭遇する確率の問題です。

とにかく考えてることを言葉として書いたり、絵に描いたり、モデルとしてつくったりして、頭のなかにあるものを可視化=外部化することで、はじめて遭遇する発見がある
ヒトの脳というものを考えれば、そうすることで偶然の発見に出会う確率は高くなるはずです。

セレンディピティはブレインストーミング+プロトタイピングから

ようは茂木さんのいうところのセレンディピティです。

セレンディピティは通常、「偶然幸運に出会う能力」と訳されることが多いのですが、意味を介してきたのではない、純粋に価値中立的なネットワークを介してきたものの中に人間が意味を見出してしまうという、脳の持っている非常に面白い性質を表す概念です。

そう。いたずら書きのなかに偶然の発見を行う能力はもともと脳に備わっているのです。

しかも、「純粋に価値中立的なネットワークを介してきたものの中に人間が意味を見出してしまう」ということを考えると、ひとりでいたずら書きの中から「偶然の発見」に出会うよりも、トム・ケリーが前著のなかでIDEOの方法として紹介しているチームによるブレインストーミングであれば、さらにその確率は高くなるのでしょう。

創造性を高める技術として、IDEOがブレインストーミング+プロトタイピングを重視しているのも、脳科学的な視点でみても理に適っていると思います。

明確な意思こそがセレンディピティの必要条件

ただし、ブレインストーミングだ、プロトタイピングだといっても、自分が何を欲しているのかが明確でないと、何の役にも立ちません。

偶然の出会いの意味がわかるためには、脳の中にある程度文脈がなくてはなりません。

そう。自分が何を探しているのかがわからなければ、たとえ、それが目の前に出現しても、それを発見することはできません。

必要なのは、正しいやり方ではなく、明確な意思です。
明確な意思は、自分たち自身の哲学とビジョンを種とし、人々の生活を観察することでより強化が可能です。

「できない」ではなく「やらない」だけ

正しいやり方は存在しません。また、間違うことも悪いことではありません。
やり方はそれこそ人の数だけ存在していいし、失敗も挽回するチャンスはあるわけです。
そう考えると「できない」というのは、単に「やり遂げよう」とする意思の問題か、あるいは、まだ「できる」途中であるかのどちらかでしかありません。

何か正しいやり方とか答えが1つあるいは少数あると思うから、むずかしいとかできないとか感じるわけです。

答えは自分の手の中にある/手の中にしかない

そうではなく、自分がいま手を動かし、その手の中で実現されるもの1つ1つが答えなんです。
自分の手でつくりあげたものこそができたものです。

「できない」というのは単に手を動かしていないのにすぎません。また、自分が何を欲しているのかがわからなければ、そもそも「できない」という判断する成り立ちません。

とにかく、自分が求めるものを見つけてるために手を動かしてみる。その労力を惜しむよりも何もせずに過ぎていく時間を惜しんだほうがいい。
答えが欲しいなら手を動かし、自分の目で見えるものをつくることです。それが自分が求めているものになったか? まだ、そこまで達してなかったら、何を足せばいいか? 改善すればいいか?

物事ってそうやって考えるものだし、モノってそうやってつくりあげていくものじゃないでしょうか?
それがたったひとりで進める作業ではなく、熱いチームの中で誰もがアイデアを出し合い進められれば、どれほど創造的か。

創造性を奪われた組織と個人

いま、ルールや数字に縛られて、管理されて、創造性を失っている組織が多いように思えます。目先のちっぽけな数字を拾うためだけに数字とルールで人を管理し、組織から創造性を奪うことで大きな数字につながる原動力を奪うなんて、どう考えても本末転倒なのではないでしょうか?

個人も組織の中にいて、それがおかしいと感じられないほど、創造性ということに対して無頓着になっているのではないかと感じます。

「彼ら」と言っていたのでは、イノベーションは生まれない。「彼ら」のせいにしていては、あなたを含む個々の人間が問題を徹底的に解決する余地をなくしてしまう。
トム・ケリー『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』

そう。「彼ら」という外部を設けて逃げ道をつくることで、自分たちで解決可能な領域は狭まります。手の中にあったできることが、外部として仮想された「彼ら」のところに移ってしまい、本当ならできることが「できない」状態になります。

それだけではなく、一旦「彼ら」といいはじめたら、組織の中でおたがいに信頼しあい、力をあわせて仕事をすることができなくなる。そんな悲惨なことってあるでしょうか?

創造性の障害となり、チームの団結よりも個人間の不信感を増長するように働く、ルールや数字なんてまったくクソ食らえです。
僕は本当にそう思います。

 

関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 企業創造力とセレンディピティ
  • Excerpt: 以前読んだ本「成功者の絶対法則 セレンディピティ」で、偶然の出会いから時にはノー
  • Weblog: 壁新聞
  • Tracked: 2007-08-29 21:15