孤独か、会話か

すこし前に買って手をつけていなかったアンソニー・ストーの『孤独』を読み始めました。なんとなくそういう気分だったので。

たとえば、世界の偉大な思想家たちの多くは家族をつくらなかったし、人間的に密接な結び付きをもっていない。デカルト、ニュートン、ロック、パスカル、スピノザ、カント、ライプニッツ、ショウペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、そして、ヴィトゲンシュタインが、まさにそうである。(中略)彼らのうちで、結婚した人は一人もなく、ほとんどの人が生涯の大半を独りで暮らしたのである。
アンソニー・ストー『孤独』

ストーは「西洋では、人間関係を理想化しすぎている」と書いています。
「愛情や友情は、もちろん、人生を価値あるものにする上で重要であるが、それが唯一の幸福の源泉ではない」と。

先日、知人が「職場の環境に刺激がない」といった旨のことを話していました。知人には考えている人がすくないという風に目に映っていたようです。

しかし、僕はそれは実際に考えている人がいないのではなくて、あなたと他の人では考えていることが違うだけなのではないかと言いました。考えてることが違えば、相手が考えていないように見えることはよくあることです。

創造的な人が孤独を偏愛するのは、他人と密接な交わりをもつことができない何かがあることの証拠なのであろうか。
アンソニー・ストー『孤独』

おそらく、そうではないでしょう。密接な交わりと創造性の関係を比較して、交わりをもてないのがそこに何かがあると考えるのは間違いだと思います。

それは先の知人の例のようにまわりとの環境において、創造性の過程にまわりとの交わりと前提としたときにはじめて現れる視点です。創造性のプロセスに他者との交換を必要としないのであれば、もしくは、密接な形での交換を必要としないのであれば、創造的な人が孤独を愛する理由をそこに求めるのはおかしいのだと思います。

会話すること、孤独であること。そのいずれかが創造性に向いているかどうかということが問題ではない。ただ、会話においては、同時に人間関係という要素が持ち込まれる。創造において必要とされる時間や独自性を優先する上で、人間関係という要素が邪魔になることはあるのでしょう。

さて、ここまで創造的な人(たとえば、偉大な思想家など)に焦点をあてたように書いてきましたが、ストーはそれが普通の人にもあてはまることだとして書いています。
ただ普通の人の場合、孤独な創造性に関する努力が「世の人の目に止まることなく終わってしまう」がゆえに、本で扱いにくいのだと述べています。

僕もそれには共感します。
何も人に偉大なものと認められたものだけが創造性なのではないと思います。他人に認められないものは社会においては意味がないというのは正しい。ですが、そうした三人称的評価が、一人称である個人に対する評価にまで及ぶかというとそうではないと思います。社会に認められるかどうかだけでは創造性の評価はできないのだと思います。
ただし、社会に認められることを望まずに、創造性を孤独に追及できるかどうかはどれだけ強い意思をもてるかに関わってくるのでしょう。

そうした自己愛を優先するか、他者との関係を重視するか、それは非常に困難な選択なのでしょう。
正しい答えなどない。だからこそ、人は選択を前に悩まなくてはならないのでしょう。判断というのは非常にむずかしいときがある。

なんだかまとまらないエントリーですね。

この記事へのコメント

  • イッチ

    逆に考えて
    愛情が枯渇すると創造的になるって考えではダメでしょうか?
    2007年02月26日 11:02
  • tanahashi

    そっちもあるんじゃないかな。
    なんにせよ、欲望が創造の動力源であるのは確かなんでしょうね。
    2007年02月26日 14:10

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