僕たちはいったい何を見ているのか?
またもや池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』からの引用になりますが、こんな記述。網膜から挙がってくる情報が視床にとって20%だけ、そして、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとっての15%だけ。だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算すればよいわけだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部の世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。
これ、すごいですよね。3%ですよ、3%。たったの3%しか脳は目からの情報を受け取っていない。
一体、じゃあ、何を見てるのかという話ですよね。
残りの97%が脳の内部情報だとしたら、普段見ているものはほとんど脳が作り上げた像だということですよ。
もちろん、それは外の世界とまったく無関係ということはないでしょう。
でも、僕たちが世界はこういうものだと思っている世界が実は、単に僕らの脳が作り上げた像でしかないというのも確かなようです。
世界は存在しているのか?
これはいろんな本で引用される哲学者のトーマス・ネーゲルの論文「コウモリであるとはどのようなことか?」と関係付けて考えるとさらにおそろしい話になります。ネーゲルは言う。コウモリの神経生理学について完璧な知識をもった人がいるとする。その人はコウモリの活動や進路決定を可能にしているコウモリの機能的なメカニズム全般について完璧な知識をもっているかもしれない。だがそれにもかかわらず、この人の知識からはとりこぼされてしまうものがある。いったいコウモリであるとはどのよなことか? コウモリであるとはどんな感じがするのか? ということがとりこぼされてしまうのだ。ジョン・R・サール『マインド―心の哲学』
人の見ているものの97%が脳がつくった世界であることと、さらにコウモリにはコウモリに、そして、他の動物種にはまたその動物種に独自の世界の見え方(つまり、その動物種の脳あるいは神経がつくりあげる世界)があるはずです。
コウモリが目で見ず音で世界を見ているほどではないにせよ、カエルの目は動きしか捉えられない目による白黒の世界に生きているわけだし、こうなるとほとんど色即是空の世界なわけです。
世界は確固として存在するのではなく、あくまで色即是空、空即是色なわけです。
般若心経の認識が正しいと思わざるをえません。
決定論的時空間
世界は確固とした形では存在しない。その一方で相対論で描かれるような決定論的な時空間が存在するわけです。
相対論の時空間では、空間だけがすでにあるわけではなく、時間さえも過去・現在・未来という形で移ろうのではなく、すでに過去から未来までの時間が空間のように存在しているとされます。
アインシュタインは「過去、現在、未来という区別は、幻想に過ぎない。たとえ、その幻想が、どんなに頑固なものであるとしても」と述べている。確かに、相対論的な時空観の下では、アインシュタインの言うことは正しい。
しかし一方で、過去、現在、未来という区別が絶対的な意味を持つという、私たちの「幻想」が、極めて「頑固」なものであることも確かなのである! しかも、この幻想は、私たちの「自由意志」という概念と、切り離せないほど深く結びついているのだ。
確かに未来が過去や現在と同じようにすでに決定したものとして時空として存在するのなら、僕たちの自由意志は存在しないに等しい。意識とは脳のニューロンの発火に過ぎないのだとすれば、物質であるニューロンは相対論的時空の決定論から逃れられません。
しかし、一方で僕たちの目はたったの3%の外部情報からしか世界を認識していない。残りの97%はつくりものの世界であるわけです。
では、このつくりものの世界にある幻想が自由意志なのか?
それでも、意識がニューロンの発火から生まれ、物質であるニューロンの発火が決定論的に定まっているなら、そうした幻想そのものが生まれ得ないのではないか? あるいは幻想それ自体が決定論的に生み出されているのか?
いったい世界はどのように存在するのか?
また、時間はどのように存在するのか?
いっしょに時間を過ごすというのはどういうことなのか?
そして、やっぱり僕たちはいま何をデザインしているのか?
もしかすると、僕らはだいぶ思い違いをしているのかもしれません。
関連エントリー
この記事へのコメント
hashimoto
本日このブログを知りまして、興味深く拝読しております。
さて、「僕たちに自由意志はあるのか?」のエントリーと併せて考えたのですが、自由意志の問題は確かに責任能力の問題として考えると軽々に判断を下せないという側面があると思います。
ただ、マーケティング的な側面からはやはり「おもしろい」という感想を持ちますね。
例えば「3%」の話とか「ヒルの実験」の話なんかを読みますと、「では、ある特定の反応を誘発するような刺激の与え方と、その刺激をこちらがねらった通りに受け取ってくれるような脳内環境の整備はどのように行えば良いのだろうか?」という関心が沸いてきます。
現時点では、この思考の方向性で良いのかどうかもわかりませんが、1つの答として「物語性」みたいなものがあるのかな、という風に考えました。(ちょっと陳腐ですが)
「オチ」だけ読んでも何のリアリティもない物語が、順序を追って読み進むことで読者にリアリティを与える様子は、刺激の与え方だけでなく、脳内の環境整備をもねらったものとして、広告なんかの「仕掛け」についてのヒントになりそうな気がしますが、どうでしょうか?
つらつらと思ったままを書いてしまいました。
tanahashi
刺激とその反応の関係性をマーケティング的に考えるという。
物語というものを神経経済学的に用いるのはまだハードルが高いと感じますが、普通に物語とマーケティングの関係を考えることは有効かなと思っています。
物語との関係は、いきなり神経経済学までいくよりも、チクセントミハイという人が言っている「フローの体験」みたいなところから考えたほうがシンプルかなと思っています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4790706141
このあたりが僕の次の研究課題の1つだったりしてます。
hashimoto
紹介いただいた本は、時間を見つけて読んでみようと思います。