無根拠な世界を般若=行動する知で問う

以前に紹介した玄侑宗久さんの『現代語訳 般若心経』を読んだ際、僕は般若心経というものが認知科学そのものだと感じたのですが、今日の茂木さんのブログ「クオリア日記」にも同じようなことが書かれていました。

青松寺。
般若心経についてお話した。
「色即是空」がいかに現代の認知科学の
見地からみて妥当な思想であるか
ということを説明した。

般若心経では、五蘊として、

  • : 物質的現象、形あるもの
  • : 感覚、外界と触れて何らかを感受すること
  • : 表象、知覚、脳内にできあがる具体的なイメージ
  • : 意志、特定の方向に気持ちが志向すること
  • : 認識の蓄積、あらゆる知識や認識の総体

が認識の5つの形態として挙げられています。

そして、それと同時に、

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

観自在菩薩さまはこの五蘊が皆、空だとわかったといっているのです。

色即是空は、そのうちの色がすなわち空であると言っているのです。
そして、また、空即是色。空はすなわち色であると。

 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の可能性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょう。
色即是空が、茂木さんが言うように「現代の認知科学の見地からみて妥当な思想」といえるのは、例えば、池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』に書かれた、こんな文章を読んでもわかるのではないでしょうか。

まず世界がそこにあって、それを見るために目を発展させた、というふうに世の中の多くの人は思っているけど。ほんとはまったく逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目ができあがって、そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子(フォトン)をその目で受け取り、その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって、はじめて世界が生まれたんじゃないか。
言ってることがわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。
池谷裕二『進化しすぎた脳』

哲学者のトーマス・ネーゲルによる「コウモリではあるとはどのようなことか?」を思い出してもいいと思います。

ネーゲルは、この論文のなかで、どんなにコウモリについての研究が進んだとしても、コウモリの意識を知ること、コウモリにとって世界はどのような形で存在しているのかを知ることはできないと言っています。

僕たち人間は世界が事実存在しているものとしてその存在を疑わないし、世界を物理学的に記述することでそれを解明しているかのように思えます。しかし、ニュートンの重力法則やアインシュタインの重力理論が本当に存在しているのか? それは単に人間の目でみた世界の記述なのか? と考えると疑問です。

そうした意味においても、色即是空なんです。

茂木さん自身もこんなことを書いています。

《「私」が「私」の「外」にある事物を認識する》
という言い方は間違っている。それどころか、極論すれば、私が認識することの内容と、外からの刺激の内容は、原理的にはまるで無関係であるとさえ言えるほどである。認識の内容は、あくまでも、脳の中のニューロンの状態から、自己組織的に生まれてくる。

茂木さんの先のエントリーに僕が惹かれたのは、こんな記述があったからです。

目的や原因をかたくとらえてはいけない。
それでは、生命の跳躍が失われる。
行為の無根拠性をこそ自覚し、
とにかく飛び込め。

「色即是空」を能動性において
つかむこと。

僕自身、玄侑宗久さんの『現代語訳 般若心経』を読んだあと、「色即是空。諸行無常。便利なハウツーもいつ塵となって消え行くかわからない」といったエントリーを書いたのですが、般若心経に書かれた認識、知の形態である般若はまさに形式的な知にまどわされない能動的で行為的な知の形態です。

最近書いた「ユーザーの生活や思考を知ることからデザインをはじめる」の中の、

実践のためには、普段の仕事であるアウトプットのデザインを頭から追い払うだけでなく、普段の仕事の場から離れて実際のユーザーや顧客のいる外の世界に足を踏み出してみることも必要でしょう。自分自身を普段の仕事の場から追い払うのです。

という話も、同じような思いで書いています。

どうしても僕たちは何か正しい答えが1つあるかのように答えを求めたり、安易に事例を参考にしようとしたりします。

しかし、確かな答えなどないんです
色即是空、諸行無常です。
世界のほとんどは無根拠さがはびこっているのです。

そうした世界で何かをつかみたいなら答えに頼るのではなく、能動的に動くしかないんだと思います。
そして、やはり、そうした意味でもWebデザインの現場では、「僕たちはいま何をデザインしているのか?」と問うことが必要なんではないかと感じるのです

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