言葉の意味とは?:オルタナティブを考える力

茂木健一郎さんの『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』がおもしろい。
まとまった書評は後日書くとして、今日は「第7章 「理解」するということはどういうことか?」に出てくる言葉の意味などの理解に関して、書いてみようと思います。

「猫」という言葉の意味はどこにある?

このブログでは記号論といえば、主にパースのそれを参照していますが、それとは異なる記号学の体系としてソシュールによるものがあります。

パースの三項関係を基本とした記号には確固とした意味が存在しないとみる記号論に対して、ソシュールの記号学はそれが構造主義とみなされるように、記号を他の記号との差異によって捉えます。

例えば、「猫」という言葉は、他の様々な言葉との関係において表すことができるでしょう。

  • 「猫」は「犬」ではない
  • 「猫」は「哺乳類」である
  • 「猫」は「子猫」を生む
  • 「猫」は「気まま」である
  • 「猫」には「ひげ」がある
  • 「猫」は「生物」である
  • 「猫」は「机」ではない
  • 「猫」は「四本足」で歩く

などなど。

しかし、茂木さんは次のように言います。

《ある言葉の意味は、その言語体系の中の他のすべての言語との関係によって決まる。》

一見、右の命題はもっともらしく思われる。(中略)しかし、この命題は、「猫」に関する完全な辞書をつくる際のマニアックなこだわりには役に立っても、「猫」という言葉の意味が、脳の中で神経生理学的に決定する際のメカニズムにはなりそうもない。
茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』

どう考えても「猫」という言葉を他の言葉と比べて理解するということは、僕たちの脳が普段、その言葉を理解するのにやっていることとは程遠いだろうと茂木さんは言います。

僕たちは言葉の意味をどう理解しているのか?

「猫」という言葉を理解するのに、それに関係する他のすべての言葉を参照した上で、その意味を理解するなんてことは、僕たちの脳が実際にやっていることとは思えない。
では、僕たちは言葉の意味をどう理解しているのか?

私たちは、言葉の「意味」とはいったい何かということを真剣に問いかける時、それがまったくわけのわからない、不確かな基礎の上に成り立っていることに気づくのである。
茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』

本当に僕たちは言葉の意味をどう理解しているのか?

ここで茂木さんが得意とする(?)クオリアが登場する。

《言葉の「意味」は、言葉の持つ「クオリア」である。》
茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』

クオリアはきわめて主観的な概念であり、他人とのあいだで伝達不可能なものと定義されます。言葉の「意味」が言葉の持つ「クオリア」だとすれば、ここに恐るべき事実が浮かび上がります。

普段、僕たちが伝達のために用いている言葉の「意味」が本来的には伝達不可能である、という事実が。

オルタナティブを考える力

まぁ、考えてみれば、僕たちが普段、人と話をしててもなかなか通じないことはよくあることです。その意味では言葉ではほんとど伝達できてはいないといえるかもしれません。

その意味で、最近よく思うのは、人と話をする際には自分がイメージしたのと異なるオルタナティブを考える力がすごく必要だなということです。

会社の同僚やお客さんと打ち合わせをしている際でもそうですが、同じ言葉を使っているからって同じ意味のことを考えているとは限りません。
言葉の「意味」は「クオリア」なんですから、それぞれが勝手に主観的なことを考えているとみたほうがいい。

なんでかわからないけど、昔から僕は他の人同士が話をしていて、二人の会話が同じ言葉を使っていながら噛みあっていないということに気づくのが早かったりします。なので、打ち合わせの場とかでは、翻訳者みたいな立場になったりすることが多い。
その意味で最初に書いたようなソシュール的記号論よりもパース的記号論にひかれるのも自分では当然のような感じもします。

先日書いた「今ある世界と別の世界を想像してみるスキル」にも通じますが、自分の頭に自然に浮かぶイメージとは違うオルタナティブなものがあるんだということを念頭において、人と話をするのとでは、ぜんぜん話の噛みあい方が違います。これは打ち合わせや意識あわせをスムーズに行うためにはとても大事なスキルだと思います。

セマンティックウェブ

また、言葉の「意味」が「クオリア」だということで思うことがもうひとつ。

僕は以前から「セマンティックウェブ」という考え方が実はあんまり好きじゃなく、言葉というものをきちんと捉えていないと思っていたんですが、言葉の「意味」が「クオリア」だといわれると、まさにそれが僕が「セマンティックウェブ」に対してなぜ違和感があったのかという疑問にしっくりくる答えであるように感じます。

「セマンティックウェブ」の意味論(セマンティックス)は、どちらかといえば、ソシュールの記号学(sémiologie)に近くて、パースの記号論(Semiotics)やここで紹介した茂木さんのような言葉の「意味」の捉え方はしていないと僕は理解しています。

パースの記号論が解釈項という外部-第三者を記号と表象(意味)のあいだに置くのに対して、ソシュールの記号学は先にも見たように記号同士の差異の中に意味を見出します。

「セマンティックウェブ」の意味論(セマンティックス)もソシュールの場合と同様に、HTMLの記述の中で意味論を完結させようとしている試みのように感じられます。
ただ、僕の知識ではそう思えるのであって、もしかすると、「セマンティックウェブ」にはそうでないところもあるのかもしれませんが。

じゃあ、「セマンティックウェブ」と比較されたりする、Google的な体系化が「意味」の「理解」に近づけるかというと、それもそうではないようです。

人工知能は「理解」をもつか?

ここで紹介した茂木さんの本の「第7章 「理解」するということはどういうことか?」の後半には、チューリング・テストの話やサールの「中国語の部屋」などの話が出てきます。

では、なぜ、現状では人工知能はチューリング・テストに合格できないのか?
それは知性の基礎である、「理解」するということが、実に過酷な要求であることによるのである。
茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』

茂木さんはこの章のはじめにペンローズの『心の影』から「(a)「知性」は、「理解」を前提とする。(b)「理解」は、「覚醒」を前提とする」という言葉を引用しています。

ペンローズに関しては、以前にもいくつかのエントリーで紹介しましたが、茂木さん同様に現状の人工知能の方法論では、コンピュータに「理解」をさせることはできず、そのため、「知性」が宿ることはないとしています。それには別の数学的発想が必要だと。

《脳は、クオリアを通して計算する。》
茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』

脳が計算するような方法で、言葉を理解する方法を数学的に実現できるようにならない限り、本当の意味での「セマンティックウェブ」への道は遠いのかなと感じます。

ここで紹介した言葉の「意味」、そして「理解」というものを根本的に考え直す姿勢は、茂木さんのこの本では徹底されています。その意味で、この本は非常におもしろいなと思って読んでいます。

関連エントリー

  
記号論に関する本はこちら
セマンティックウェブに関する本はこちら
茂木健一郎さんの本はこちら

この記事へのコメント

  • わかりやすい。

    茂木さんより、先生向きです。
    茂木さんをMS-DOSとしたら、
    ユーザーインタフェースが必要ですね。ぴったり。

    ついでに、そこから踏み出して、同じものを目で見ても違う理解(クォリア)ということで、文字(音)特殊性の否定もしてほしかったけど。
    物理的に、距離を飛ばしたり、再現性があるだけだと。
    2007年02月11日 23:22

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