世界はすくなくとも人間の数だけある?
「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義」でも取り上げたような、「世界に関する記述の限界としての<私>」という視点からみれば、おそらく、人間の数だけ世界が存在するということが可能でしょう。もちろん、人間以外にも生物はいて、それぞれに固有の世界をもっているはずですから、本当はもっと多くの世界が存在するということも可能です。
ただ、ここでは人間以外の生物の世界を想像することは、ほかの人の世界を想像する以上にむずかしそうなので、便宜的に「人間の数だけ世界がある」という程度にとどめておきます。
距離の隔たり、時間の隔たり
普段、いっしょに過ごしている人同士であれば、「人間の数だけ世界がある」ということはほとんど気にすることはないかもしれません。しかし、距離的に遠く離れた違う国の人のことを想像してみれば、その人と自分が別の世界に住んでいることは、案外、すんなり理解することができるのではないかと思います。
同じことが時代を隔てた人の世界を想像する場合でもいえるかと思います。江戸時代の人の世界を、僕らは別の世界に暮らす人だと考えるでしょう。
昨日、富沢ひとしのマンガ『特務咆哮艦ユミハリ』を取り上げましたが、そこでは本来、別の世界に隔てられた異なる時代(戦国時代、明治、大正、昭和、そして、B.C.1万5千年)の人々が2040~50年代の日本で場を共有してしまうがために生じた戦争のなかを生きる物語が展開されます。
この話は一見、SF的なありえない話です。
しかし、普段、僕たちが接することができる次のような事柄と比べて、それほど特異なことでしょうか?
10億年前の銀河、いまの銀河
10億光年の離れた銀河の光が僕らの目に届くためには10億年かかります。それが10億光年の定義だから当然ですね。では、僕らがいま見ている銀河は、10億年前の銀河なのか、それとも、いまの銀河なのか?

茂木健一郎さんは『脳とクオリア』のなかで、この問題を客観的な時間である座標時tと一人称的に(あるいは相対論的に)観察者によって異なる固有時τという2つの時間を区別して、次のように説明します。
よく「10億年前に銀河が消えたとしても、そのことにやっと今気がつく」などと言われることがあるが、それは、あくまで座標時tでの話である。しかし、自然法則にとって本質的な時間は、固有時τなのだ。なぜならば、それは因果性を満たす唯一の時間だから。したがって、私が見ている10億光年先の銀河は、あくまでも「今」の銀河なのである。茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』
座標時でいえば10億年前の存在である銀河が、固有時においてはいまここにある。
このことは、『特務咆哮艦ユミハリ』において、2040~50年代の日本に明治や戦国時代や昭和や紀元前15000年の世界が同居することとそれほど大きな違いはないような気がします。
もちろん、違いがあるのは、銀河の場合は隔てられたままの10億光年の距離までもが、『特務咆哮艦ユミハリ』の場合は日本という場に押し込められてしまっているという大きな違いがあるのですが。
同じ時間を過ごすとはどういうことなのか?
固有時τにおいて、夜空に輝く銀河は、いま見ている誰かのブログ記事やテレビ画面に映るテレビ番組とおなじように、「今」存在するものです。では、同じ時間帯に同じテレビ番組を別々の場所で見ている赤の他人とは同じ時間を共有しているといえるのか?

これはおそらく同じ時間を過ごしているとは言わないでしょう。では、この2人がおたがい知り合いで、ネットでメッセンジャー経由会話しながら、同じ番組を見ていたら、同じ時間を過ごしていると言えるのか?
あるいは、また、学校の教室で、先生が写真を掲げて説明している銀河について学んでいる、先生と同じ教室にいる生徒たちは、先生と同じ時間を共有しているといえるのか? また、その際、見ているのは同じ銀河なのか?

そのとき、生徒のひとりがこっそり携帯電話で、ほかの誰かとメッセンジャーでのやりとりをしていたら、その生徒はいったい誰と同じ時間を過ごしているといえるのか?
いっしょに時間を過ごすというのはどういうことなのか?
最初の「人間の数だけ世界がある」という仮定に戻れば、そもそも同じ時間を過ごすことはできないという風にいえるかもしれません。では、夜空を彩る花火を肩をくんで二人で見ているカップルでさえも、いっしょに時間を過ごしているとはいえないのでしょうか?

この状況においてまで「人間の数だけ世界がある」といってしまうのは、あんまりだという気がします。
では、カップル同士がおたがいに離れた場所で電話で話していたらどうなのか? それが携帯電話のメールのやり取りならどうなのか?
おそらく、そんなの本人たち次第というのが真っ当な答えなんでしょう。
しかし、そうであるがゆえに、いっしょに時間を過ごすというのは、ある種の奇跡を必要とするのでしょう。
いっしょにいるのが楽しく思えるような奇跡が。
その奇跡が消えてしまったら、いっしょにいても別の世界で生きているのと同じになるんでしょうね。
という、きわめてマーケティング的な考察でした。
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