ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義

今日、仕事をしていてこんなことを考えました。
日常の仕事や家事のあいまにある休息時間、気分転換のひとときというのは、ある意味では、公的な役割を演じている自分から<私>自身へと戻る時間なのだろうな、と。

公的な<私>、私的な<私>

考えたことを図にしてみると、こんな感じでしょうか?



「<私>への旅」と書いているのは、それが普段暮らしている環境からの一時的な逸脱、旅路のような気がしたからです。
僕がイメージしているのは「<私>に戻る」というよりは、普段、公的な場、公共の空間で、肩書きや役割、ユニフォームとしてのスーツ、公的なものとして求められる発言として規定されている公的な<私>からの逸脱として、そこから逃れるものとして私的な<私>が作られるというイメージ。

スタイルに包まれた<私>

だからこそ、そこではスタイルが重要になるのではないかと思います。

好きな音楽、好きな本、好きな洋服、好きな芸能人・・・。

公的な場における規定から逸脱するものとして、まったく別の理由で選択されたスタイルが強調されます。

<私>自身へのこだわり。
<私>自身の「スタイル」を様々な好みのスタイルを組み合わせることで形作ることへのこだわり。
<私>らしさ。

それはまるで実は<私>というものが存在しないことを薄々感じ取っている自分自身が、そのことに耐え切れず、なんとか<私>を見出そうともがいているかのようでもあります。

世界の記述限界としての<私>

入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』では、ウィトゲンシュタインの哲学の中で<私>に関するウィトゲンシュタインの思考の変遷を追いかけています。

初期の独我論においては、<私>は世界に関する記述の限界として同定されます。

世界に存在して、世界のあらゆるものを記述可能な<私>も自分自身だけは記述できない。もちろん、<私>に関して、先の自分好みのスタイルをあげつらうという形で<私>を記述することはできます。しかし、<私>自身がそのスタイルを選択して、あげつらうこと自体を記述することはできません。仮にそれが記述できたとしても、その記述を行う<私>を自分自身が記述することはできない、という形で、どこまでいっても限界が存在してしまいます。

その意味で独我論におけるウィトゲンシュタインは、<私>を世界に関する記述の限界として同定しているとこの本では説明されています。

私的言語は存在しない

ウィトゲンシュタインの哲学は、前期と後期では大きく異なるということが一般にはいわれています。その変化のなかで<私>をめぐる思考も、言語ゲームというテーマのなかでの「私的言語」に関する考察としてあらわれます。

他人に読めないような暗号で書かれた日記などを考えてみればよい。それは、「われわれの普通の言語」でできてしまう。それは「私的言語」ではない。せいぜい「われわれの普通の言語」の「拡張」である。
入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』

ウィトゲンシュタインの言語ゲームという考えにおいては、通常考えられるような定義があって、その定義を利用した判断、測定が可能になるという関係が逆転されます。判断や測定が可能な文法(ゲームのルール)が存在するから定義が可能になるのだ、と。

「私的言語」の考察は、このルールの逸脱が可能かという点で、次々に思考実験のモデルが提示されては、それは「われわれの普通の言語」の範囲内であり「私的言語」ではないとして覆されます。

そして、この繰り返しのなかで常に思考実験のモデルは、「われわれの普通の言語」に回収され、「私的言語」にたどりつくことはありません。別の言い方をすれば「私的言語」はいつまでも捕獲されずに逸脱し続ける。一般的にはだからこそ「私的言語」は存在しないという結論が導かれますが、この本ではこうした逸脱こそが「私的言語」であるのではという考察が行われています。

公的なもの、私的なもの

そうした視点に立つと、実は公的なもの/私的なものという二項対立が、実は偽り(つくりもの)の二項対立であることがわかります。先にあるのはあくまで文法であり、公的なものに対立しておかれる私的なものはあくまでその文法に従った、公的なもの<ではない>という意味での記述された<私>でしかないのでしょう。

もちろん、それは<私>は存在しないということにはならない。
ただ、それは記述限界を超えたものだということなのでしょう。

それゆえに<私>への旅には終わりがないのかもしれません。

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