
そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反-知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。
事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。
これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。
スクリーンに投影された像をみながら、そのイメージを自身の内面のイマジネーションと等号でつなぐ。
まさに外に表現された像が内なる像とおなじだと想えるようになったことで、人が想像する=イマジネーションを行うことが可能となり、それが一般の人のあいだにも浸透しはじめた時代が、17世紀初めの「エキセントリック・スペース」の流行の時代のもつ意味だというのです。
使うという一体感のある関係から、見る/見られるという非対称の関係へ
ヴンダーカンマーが現在の博物館や美術館の前身となった個人の収集部屋/施設であったことは前回も紹介しましたが、そのバロック的収集部屋は同時に、のちの国際博覧会や百貨店のような商業的展示の場の原型でもありました。バロックという名の過激な記号論的状況に、あさましい市場感覚がくっついたものが19世紀百貨店なのだ。水晶博覧会のカタログや初期百貨店の店内の模様を見るなら、フランボワイヤンかつキッチュなバロック様式への先祖帰りであることがだれにでも一目瞭然わかるはずだ。
高山さんも指摘していますが、ヴンダーカンマーから百貨店へと連なる「見せる収蔵庫」に共通するのは、そこに収蔵された瞬間から物は「使用価値」を奪われ「交換価値」を付与されるということでしょう。

▲ヴンダーカンマーを1873年ウィーン万国博覧会の日本館(wikipedia「国際博覧会」より)
使用というある意味、物と人が一体となって行う関係性から、見る/欲する主体としての人と見られる/欲せられる客体としての物との非対称な関係に引き離される様は、あとで論じる遠近法がもたらした人と物との隔たりの延長線上にあるものと言ってよいかと思います。
そして、遠近法が人と物とを主体/客体という形で分け隔てたと同時に、画面に描かれる像と目に映る像との隔たりを消し去り同一視できるようにしたように、ヴンダーカンマーにはじまる「見せる収蔵庫」は、外界から切り離された部屋/施設のなかに物を閉じ込めることで物理的な所有欲を満たすだけでなく、それと一体化した知的な意味での所有欲を満たすものとして機能したのです。
ヴンダーカンマーや同時期に流行した百科全書といった博物学的視覚表現装置は、外のスクリーンや紙面、部屋やテーブルの上を物理的な品々やイメージで満たすと同時に内面の知的欲求も充足させる装置として生み出され、発展したものといえるのです。
後の、リンネにはじまる近代分類学や博物館/美術館の展示室・カタログの分類〜レイアウトシステム、百貨店などの商業施設の商品レイアウトが、さらに「分けて見せる」ことで直接人間の内面の知的欲求や所有欲求を刺激できるようになったのも、ヴンダーカンマーや百科全書による先行した視覚表現技術の実験がなされていたからといってよいでしょう。
視覚表現と内面の想いが等号でつながれてはじめてデザインは可能になる
ここであらためて僕らが理解しておくべきは、こうした視覚表現と内面の想いを等号でつなぐことが自然に受け入れられるようになってはじめて、いま当たり前のように発想を練り上げるために使っているアイデアスケッチやプロトタイピングといったデザインの方法も可能になったということでしょう。自身の手指が描きだす/創りだすスケッチやプロトタイプが自身の頭のなかの像と同じであるということを何の違和感もなく受け入れられることができなければ、それらの方法で企画や計画といったデザイン的な思考を働かせることは不可能だからです。
逆にいえば、僕らのデザイン的な思考は、常に、いま使われている視覚表現技術の制約=可能性に縛られているということもいえるのですから、その点はしっかり自覚しておく必要があると思うのです。
僕らは頭のなかの像を、その想いどおりに紙やコンピュータのディスプレイの上に描けるということを当然のことのように信じきっていて、むしろ、そのことを何の疑いももたず、紙やディスプレイの上に写し出された像と自分の考えとの差異に気づかなくなっています。
そう、本来、必ずしも自然に等号で結びつけられる関係ではないはずの外部の像と頭のなかに思い描く像を何の疑いもなく重ね合わせ、あたかも自分の頭のなかの考えを操作するかのように目の前の図像を編集しなおているのだということに無自覚です。
現在の視覚表現技術の限界が僕らの想像力を限界づける
しかし、それはあるとき、視覚表現技術の進歩によって、外に投影された像が内面を表していると思える技術が確立されて以降の"当たり前"でしかありません。そのことに対する自覚を、僕らはいまこの時代だからこそしっかりともつ必要があると思うのです。
というのは、従来の視覚表現の技術が、今日のインターネットとデジタル表現技術の普及によって日夜増え続ける情報を統合的に表現するのには荷が重くなっている現実があるからです。
繰り返しますが、これまでの視覚表現技術がこれまでの僕らの想像力を形作ってきたのだとすれば、同時にその技術は僕らの想像力の制約ともなっているということです。
なので、いま既存の表現技術が日々の膨大な情報を視覚的に統合的に表現できなくなっているということは、それを想像の対象、思考の対象として扱えなくなっているということにほかならないのです。
もちろん、そうした状況に対する変革のアクションはいろんなところで見られるようになっています。
ビッグデータをインフォグラフィックスを用いて情報を読み取れるようにしたり、ワークショップなどのグループワークの場でグラフィックファシリテーションを使ってコミュニケーションを促進したり、僕自身も一時期はまっていたような頭の中の考えをスケッチを交えてノートに表現するsketchnotesのような流行も、従来とは異なる情報環境に適した視覚表現技術=想像力を高める方法を模索する活動として読み解けば、いま、なぜ、そうした動きが世界的に注目を集めているのかも理解できるのではないでしょうか。

▲スケッチノートによる視覚表現(cf.「グラフィカルにノートをとりながら思考を整理する」より)
中世絵画の神学的象徴性から、ルネサンス遠近法絵画の自然の模倣へ
そんなことを思いつつ、話の文脈から脱線するように歴史を振り返れば、外部に視覚表現された像と内面の像を統合でつなぐことの第1歩は、17世紀のヴンダーカンマーの時代を待つまでもなく、すでにルネサンス期に遠近法が確立されたときからはじまっていることに思い当たります。遠近法ほど、僕らの視覚的な思考を支配している表現はなかなか他にないかもしれません。僕らにとってはもはや遠近法で描かれた絵のように世界を見ることも当たり前になっています。
しかし、遠近法が確立される以前、中世の絵画においては写実性より象徴性が重んじられいて、遠近法で描かれた絵画のように図像の大小で距離を表すような表現は行われていませんでした。

▲「聖母と天使たち」(wikipedia「チマブーエ」より)
例えば、13世紀のフィレンツェで活躍したゴシック様式を代表する画家の一人として知られるチマブーエの上の絵を見ても、中央に位置する聖母とまわりを囲んだ天使との身体の大小は、遠近法的な距離感を示すというより、聖母と天使の神学的な関係性を図式的に示したものと理解したほうがよいでしょう。
それは中世的思考においては芸術そのものが自律したポジションをもつことなく、キリスト教的知識を記録し記憶しやすい助ける媒体であったことも大きかったのでしょう。
その芸術観が変化したのが「芸術の課題は現実の直接的な模倣である」と強調したルネサンスの時代であり、そのとき、芸術の対象は神学的なものから自然へとシフトします。
ゴシック様式がプレ・ルネサンスと呼ばれることもあるとおり、先のチマブーエの絵においても聖母の足下の台座に技術的にはまだ稚拙ながらも空間意識があらわれていたように、自然を直接的に模倣しようという意識は徐々にではあっても当時の画家の意識に芽生えていたのだと思います。
芸術が自然に直接向き合おうとした際、新たに芸術に課せられたのが「どうやって模倣するのか?」という問題でした。
そして、それに対する回答として15世紀初頭のフィレンツェを中心に開発されたのが遠近法なのです。
例えば、15世紀初頭のフィレンツェで活躍した、最初に透視図法を使用した作品を描いた画家の一人として知られるマサッチオの下のような絵をみると、まだ透視図的には不完全なところも残るものの、先のチマブーエに比較すると、僕たちの目にも見慣れた遠近感の表現が画面に登場していることがわかります。

▲「貢の銭」(wikipedia「マサッチオ」より)
この透視図法としての遠近法は、レオン・バッティスタ・アルベルティが1435年に著した論文『絵画論』のなかではじめて理論化・公式化されることになり、ルネサンス期の多くの画家に採用されるようになります。
遠近法がつくる隔たりと廃棄される隔たり
図像解釈学者として知られるエルヴィン・パノフスキーは、『象徴形式としての遠近法』遠近法はまた、人間と物体とのあいだの隔たりをつくり出しもするが、しかしそれはまた、自立的に存在している人間に対峙している物の世界をいわば人間の眼のうちに引き入れることによって、やはりこの隔たりを廃棄してしまいもする。エルヴィン・パノフスキー『象徴形式としての遠近法』
これが先にヴンダーカンマーの話をしたときにも触れた遠近法によって生じた、人と物(世界)との関係性の大きな変化です。
引用中の前半では、人と物との隔たりというのは、遠近法という視覚表現技術のもつ一方を「見る主体」としもう一方を「見られる客体」に分け隔ててしまう性質を指摘しています。そして、後半の「隔たりの廃棄」では人と物とのあいだに非対称な隔たりを生じさせてなお、この記事の最初に書いたような外部に投影された像を自分の内面(ここでは眼のなか)と同一視してしまうような錯覚を遠近法は生じさせるということが指摘されるのです。
つまり、極論すれば、遠近法は、人間をリアルな世界から切り離す一方、人間自身の内面とシームレスにつながったタブロー(tableau)上のバーチュアル空間へのアクセスを可能にしたということです。人はそのときからリアルな世界を離れ、バーチュアルな世界で生きるようになったのです。
その遠近法という視覚表現技術が可能にしたバーチュアル空間へのアクセスをさらに拡張したものが、17世紀の珍品を並べたヴンダーカンマーのテーブル(table)であり、現在の広大なインターネット空間につながったタブレット(tablet)なのです。
時は16世紀、マニエリスムの時代へ
こうした現在にも影響を与えるような大きなパラダイムシフトをもたらした偉大な視覚表現技術としての遠近法が生まれた背景には、長く続いた寒冷期が終わったことで農業の生産が上がり、人口が増え交易も盛んになったことで各地に都市が生まれはじめた11世紀からはじまり、12、13世紀と続いたヨーロッパの繁栄に終止符が打たれ、ヨーロッパ社会全体に不安や混乱が表面化した時代であったいうことが指摘されています。またコペルニクスにはじまる天文学的パラダイムシフトや、コロンブスにはじまる大航海時代がはじまり、従来の世界観が大きく変化していたのもこの時代です。
ルネッサンスの芸術家たちが自己救済につとめ、その問題性をなんとか解決しようとしている間に、天文学と地理学の次元において世界はますます大きくなる一方、信仰内容は脈絡を失い、政治的社会的秩序は腐蝕され、一方では新しい諸王国が興され、初期資本主義経済が最初の危機に見舞われつつあった。グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界―マニエリスム美術』
こうした大きな社会変化のなか、自らの役割を神学的な象徴を表すことから、自然を数学的な手法である遠近法を用いて模倣することへとシフトさせた芸術の概念は、さらに宗教革命の激化などでめまぐるしく流転し続ける社会の状況を反映するように16世紀になると、さらに大きく変化し続けます。
例えば、16世紀初頭のフィレンツェの画家ヤコポ・ダ・ポントルモの作品「十字架降架」では、画面にあらわれるあらゆる人・物が不安定に蛇行してうねり、その一方で画面の中心が無意味化して全体の調和や均整を破壊しています。

▲「十字架降架」(wikipedia「ヤコポ・ダ・ポントルモ」より)
このレオナルドとアンドレア・デル・サルトの弟子ポントルモが、その奇妙な孤独と〈サトゥルヌス的な〉唯我独尊にとじこもりながら、1520年から1550年にわたるこの時期の人間がどのようなまったく新しい問題に直面しており、なお直面することになるかを、如実に予感していたことがわかる。動揺、不安、見捨てられているという感情、〈寄るべなさ〉が、すべての部分の調和、均整、節度、円、整合的な中心という、アルベルティ風のルネッサンスの完全性の理想を的に回して、いわば登場してくる。グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界―マニエリスム美術』
ここでポントルモが描いているのは紛れもなく、目の前にある自然の直接的模写などではまったくなく、自ら感じた社会的不安という内面的イメージであり、それを遠近法的写実的表現を用いつつも、現実をねじ曲げ、ゆがめ、変形させるような形で映しだそうとしているように感じられます。
自然の模倣から離れ、ウェルトゥムヌスの領国へ
盛期ルネサンスのあとに続いたポントルモらのマニエリスムの画家にみられた、こうした変化を、マリオ・プラーツは『官能の庭―マニエリスム・エンブレム・バロック』ミメーシスの概念、つまりルネサンスに支配的な自然の模倣として芸術の概念は、実際には「止まれ、汝は美しい」なるポーズとして固定された静止的な世界を前提としていたが、いまや16世紀になると、心の内面でとらえられた世界のイメージは静止的どころか絶えまない変転にほかならない、とする理念が生み出される。まさにこれはウェルトゥムヌスの領国である。そこから芸術家にふさわしいのは、単なる自然の模倣から開放された表象としての、すなわち自律的な噴出によって紙の上に投影された創意としての「内的ディセーニョ」であるとみなされるようになった。マリオ・プラーツ『官能の庭―マニエリスム・エンブレム・バロック』
宗教改革運動の激化を中心にさらに大きな変化にみまわれた社会情勢と呼応するように、画家の描きだすイメージも初期ルネサンスの静止した世界を模倣した絵画から、もはや単なる模倣にとどまらない激しくうつろう心の動きを表現したような歪み、うねり狂ったイメージを表現した動的なマニエリスム絵画へと変化します。
同じ変化を、ホッケは先のポントルモの絵などを参照しながら「自然模倣から幻想芸術へ」と表現していたりもします。
マニエリスムの画家たちは、季節を司り、果樹園と庭園を支配する古代ローマの神ウェルトゥムヌスのようなに扮したボヘミアの王・ルドルフ2世という明確に「変転」をテーマに描かれたアルチンボルドの絵のように、自然の模倣から自然を素材にした幻想の創作へとその表現技術の可能性を切り開いていくのです。

▲「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」(wikipedia「ジュゼッペ・アルチンボルド」より)
内的ディセーニョ disegno interno
このマニエリスム的態度を理解する上で重要なのが、先のプラーツの引用文に登場した「内的ディセーニョ(disegno interno)」というワードでしょう。以前に「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」という記事でも取り上げましたが、1607年にフェデリコ・ツッカーリというイタリアのマニエリスム画家、建築家の「絵画、彫刻、建築のイデア」という論文のなかに「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」として登場したものです。
ディゼーニョはデザインであり、disegno internoは内的構図とも訳されます。
ホッケは『迷宮としての世界―マニエリスム美術』
最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これは要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界―マニエリスム美術』
芸術家の内にすでに〈内的構図〉があり、芸術家はそれを〈外的構図〉である絵画へと変換する。この時点ですでに僕らが考えるのと同じように内から外へ向かう想像/創造のあり方が生まれていることがわかります。
外にある自然を模倣する技術である遠近法の確立によって、表現されたイメージと内面のイメージの重ね合わせが可能になった先に、今度はその順序を逆転させて、内なるイメージを元に外にイメージを実現すること、しかも、外の世界には実際には存在しないモノのイメージを表現することが可能になったのです。
そして「芸術家は〈人工の〉事物を創造する」。
まさに想像が創造へとつながった瞬間であり、デザイン的思考のはじまりです。
近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機
ルネサンスの遠近法と、それを内面化させてしまったマニエリスムのディゼーニョ・インテルノを経て、以下で高山宏さんが指摘するような「想像力」という概念と人間がひたすら戯れる時代がはじまったのでしょう。大雑把に考えてもたとえばヨーロッパの「近代」と称されている文化は、ほとんど強迫観念的に人間の頭脳の回路の中で生じる、それまでまったく知られていなかった知的発火の状態を少しでも解明し、あわよくば望むときにそれをふたたび生じさせるための方法を定式化する作業に費やされていたと思われる。そのつどに多様な言葉をキーワードにしながらも基本的には「想像力」と呼んでさしつかえない概念と面と向かった対決と、その構造の解明の努力の歴史が、たとえば17世紀初頭、「近代」のパラダイムの組成が生じたとされる時点から、19世紀末にいたるまでの長いタイムスパンを一貫する巨大な文化モティーフなのである。
そして、その「巨大な文化モティーフ」である「想像力」にまつわる探求は、まさにスタフォード女史が『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
そこから、20世紀の写真や映画、テレビ、マンガやアニメなどの視覚表現技術の進歩による「想像力」の拡張はまさに地続きでした。
けれど、そうした想像力の拡張を担った視覚表現技術とともに人々の想像力自体が危機に陥っているのがいまだといえるでしょう。
それらが危機に陥っている理由はすでに書いたような情報量の増加ということももちろんあると思いますが、それ以上に、遠近法以降の近代視覚表現技術が常に前提としてきた「リアルな世界から切り離された孤独な個人」という主体のあり方自体が、このソーシャルな時代において危機に瀕しているからだと感じています。
ソーシャルかつソーシャルであるが故に複数の役割に分裂した個人という現在を生きる人々のあり方を引き受ける力を遠近法の延長としての近代視覚表現技術は有していないということがいまの「想像力の危機」の根本原因のように思うのです。
つまり、ソーシャルかつ複数の役割に分裂した個人を受け止める新たな視覚表現技術の開発が、これからの時代に合った「想像力」を生み出すためには必要とされているのです。
そう。いま新しい視覚表現技術とそれとセットになった新たな想像力へのイノベーションが求められているのです。
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