「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤/下條信輔

この本は『欲望解剖』で茂木さんが「イリュージョンの本質について知りたい人は」この本を読むとよいと語っていたのがきっかけで手に取ったのですが、その言葉通り、錯視や錯誤を手がかりとして、脳と意識、意識と身体、環境などの深いつながりについて考察している本です。

錯誤と正しい認知

この本では、かけると上下左右が逆さに見える「さかさめがね」や色つきめがねなどの例を用いて、脳はそうしためがねを長い間、かけているとそれにあわせて適応してくる話を紹介してくれています。

さかさめがねをかけると当然上下左右が反対に見える。でも、それをずっとかけ続けていると、上下は1週間で、左右も4週間ほどで通常通り見えはじめるそうです。
不思議な感じがしますが、元々眼の網膜に映った図像は上下さかさまであることを考えれば、脳は最初からさかさまの像を反対に図像変換することで上下を正しく見せているといえます。
さかさめがねへの順応によって、実はヒトは生まれてはじめてこの脳の図像変換を介さず、直接、ものを見ている状態になるわけです。ある意味では、さかさめがねをかけることで、人ははじめて生まれもった脳による図像変換というめがねを外すことができるというわけです。

この脳による変換が錯誤を生じさせる原因だということです。
脳が環境により適合するように自らを変え、その結果、知覚系と行動系が環境に対して完璧に適応的なものとなる」ような脳による環境適合状態において、さかさめがねをかけるような形で環境の側が変化した場合、脳による認知は錯誤を生み出すのです。

そう考えると、錯誤と正しい認知のあいだは、普通考えられる以上にあいまいなものでしかない。そういうことから下條さんが意識の謎に迫っていきます。

脳の来歴

すでに「脳の来歴」というエントリーでも紹介していますが、下條さんは意識を脳が身体、環境と相互作用する中で生じてくるものと捉えています。
脳の来歴という言葉は、意識が脳と身体や環境との相互作用の結果を蓄積し、それらに適応していく中で生じてくるものだということを示すものです。しかも、そうした蓄積は個体単位ではなく、種単位、さらには脳をもたない生物だった時代から受け継がれたものまで含まれます。

そうした蓄積による環境適応が錯視や錯誤を生むわけです。そして、それは、さかさめがねという人工器官をはじめて経験可能になる。しかし、さかさめがねをかけることは先にも書いたように、脳による上下の図像変換を外すことにほかならないわけで、外部的な器官による変換と身体的器官による元々の変換のあいだに明確な線はひけないわけです。

脳の経験と記憶のありようを操作するために物理環境を操作していたはずの私たちは、結局それが(感覚器官を含む)身体を操作することと本質的には変わりがないことに気づくのです。そして身体をいじってしまうと、「同じ世界かちがう世界か」という議論も宙に浮いて回答不能になるのです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

意識を生み出す脳は、身体に、環境に、そして、脳がこれまで辿ってきた歴史につながっていて、それらの相互作用によって、いまある世界を主観的に見ているのであって、そこには客観的な正解という図像は浮かび上がってこないことになります。

意識と無意識、あるいは、自由意志

この本で興味深いのは、下條さんが意識と無意識の関係を探る第4章です。
意識と無意識の連続性に下條さんは意識の本質を見出します。

意識の中心から周辺へ。そして、無意識へ、身体の反射へ、という芋づる式の連続体、それも反問されると境界が変わり、無限に枝分かれしていくような融通無碍の連続体。この中にこそ意識の本質が見え隠れしている気がしてなりません。意識とはこのような連続体を「地」とする「図」なのです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

意識には、無意識と呼ばれる膨大な「地」があり、その一部が「図」として浮かび上がってくるものを意識として捉えることが可能ということです。そして、この意識は常に浮かび上がってくるわけではなく、「思いを果たせないとき」「行動を評価するとき」「他人の視点から見るとき」の3つの場合に浮かび上がってくる。3番目の「他人の視点から~」というのは、「他人に見られている」と自意識過剰気味に感じる場合でしょうか。

下條さんは、この3つのケースが「自由な行為」が妨げられていると感じる場面に重なることから、次のような考察に到ります。

裏を返せば、「自由な行為」は、もっとも意識にのぼりにくいときに実現します。没頭し、われを忘れているときに。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

本来、意識があるから自由な行為が可能だという印象がここでは反転されています。これには意識にのぼらない状態-自動機械的な行為のなかに自由意志があるという常識に反する印象を受けます。
しかし、それは自由意志と機械論を対立させるそもそものフレームワークに問題があるのであって、そうしたデカルト的二項対立そのものが成り立たないことを示しているのだと捉えられるのでしょう。

脳科学を超えた影響

そうした意識や自由意志といったものを、身体や環境から切り離して考える還元論的な思考がもはや機能しないことがこの本を読むとよくわかります。

それは単純に意識とか脳の範囲におさまるのではなく、より日常的なレベルでも、なにかの理由を部分に求める還元論的な思考から、なにかとなにかの相互作用、様々な要因が絡み合ったネットワークにおける相互作用に理由を求めることの必要性を感じさせます。

理由を問うことは、責任を問うこと、コストを問うことなど、経済的な話にもつながります。その意味でこうした認識の広がりは単に科学の分野におさまらない変化をもたらすのではないかと強く感じました。

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