2007年01月13日

意識の中心と周辺

アイトラッキング調査をしていると、人が見ているものとその人の意識が必ずしも一致していないんだなということに、あらためて気づかされます。
目はWebの画面を追っていても、実際には見ているという意識がないことがあるんです。

調査結果のホットスポット分析の画像で長く注視していたポイントについて、被験者に尋ねても、そこを見ていたという記憶がなかったり。また、何かの記事を読んでもらっていて、視点の移動が時々、前の段落に戻ったりすることが見られますが、そういう場合も単純に読み直したくなったというケースもあれば、他のことを考えてしまって読んでなかったことに気づいて戻るというケースがあったりします。

なので、アイトラッキングの目の動きだけを見て、どこを見ていた/見ていなかったを判断するのは危険で、必ずユーザーへのインタビューやアクセスログ解析の結果などと組み合わせた分析が必要になってきます

意識の構造

そもそも、こうした視線の動きと意識の不一致は、被験者の注意力の散漫さなどに原因を求めるのではなく、ヒトの意識の構造に原因があると考えるべきなのでしょう。

下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』では、ヒトの意識には「中心と周辺」があるということが述べられています。

たとえば、運転しながら哲学の問題を考えている状況を想像してください。考えに夢中になると、ほとんど意識しないうちに、あるいは運転しているという自覚なしに、いつの間にか無事に家まで帰り着いている、ということがよく起こります。これは無意識に運転したのではなく(そんな乱暴なことはできるわけではありません)、運転に必要な知覚や記憶は意識の周辺にずっとあった、と考えられます。ただ「気づき」がなかっただけなのです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

「運転しながら哲学の問題を考えている状況」はなかなか想像しづらいかもしれませんが、ようは何か考え事をしている状況です。

僕もよく本を読んでいるときに、これと似たような状態になります。気がつくとページは進んでいるんですけど、中身はぜんぜん覚えていない。何か別の考え事をしていて、目だけが文字を追ってしまっている状態ですね。
先のアイトラッキングで目が突然、前の段落に戻るのも、これと似たような状態だったことに「気づく」場合です。
でも、それは正確には目だけが文字を「無意識に」追っているのとは違うわけです。

意識の周辺にあるものはすべて無意識的、と言いたくなる誘惑にかられるかもしれませんが、やはり違います。というのも、周辺にあるものは、その気になれば意識の中心に持ってくることができるからです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

意識の構造は、意識−前意識−無意識がゆるやかに連なった構造になっていると考えることができるそうです。この意識−前意識の関係が、意識の中心と周辺の区別に近いそうです。

図と地

逆にこの中心と周辺と区別でいえば、「アイトラッキング」の回で紹介した、本文の横のエリアにある広告バナーが視界の片隅に入っているのにそれを注視しないという場合は、それが意識の周辺にあるからそうするのではなく、むしろ視界の周辺にはあっても意識の中心にあるため、意図的に見ないようにするという風に理解すべきなのでしょう。
つまり、視野の周辺と意識の周辺も違うわけですね。

意識の中心と周辺は、はっきりと明確な境界線で区切られているわけではなく、ゆるやかにつながっているわけですが、この構造によって、いわゆる図と地の関係は容易に反転可能ということになります。ここでいう図と地の関係は何も視覚的な図像のことだけではなくて、思考や認知の場合の思考内容とその基盤としてのフレームワークの関係でもあります。

意識の中心から周辺へ。そして、無意識へ、身体の反射へ、という芋づる式の連続体、それも反問されると境界が変わり、無限に枝分かれしていくような融通無碍の連続体。この中にこそ意識の本質が見え隠れしている気がしてなりません。意識とはこのような連続体を「地」とする「図」なのです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

意識が連続体を「地」とする「図」であるからこそ、中心と周辺を次々と入れ替え、様々なことに思考をめぐらせたり、いろんなものを見ながら人と会話したり、また、画面のほうに向き直ったりという、非常に多様な行動が人間には可能になっているわけです。

調査・分析の間違ったアプローチ

そうした人間の意識を、目の動きを捉えるアイトラッキング、クリック履歴を追うようなアクセスログ解析、直接被験者に尋ねるユーザーインタビューのどれを使っても、一面的な理解しか得られないのだということは正しく認識しておかなくてはいけないと思います。
同じように、ブログに書かれた内容、その人がブックマークしたWebページの傾向、Amazonで購入した本などが何かその人全体を示しているかのような指摘も同様の意味でおかしくて、そうしたものに度を越えた期待をかけるのはどうかと思うのです。

ヒトはそもそもアウトプットを出すために生きているわけではないと考えるべきなのでしょう。もちろん、アウトプットを出すことが目的である場合も数多くあります。しかし、意識はあくまで意図的に出されるアウトプットではなく、あくまで脳と身体の連続体が活動する中でついでに生み出されるものです。

そこで生まれるアウトプットは、意識の連続的かつ図と地の関係も容易に反転可能な柔軟性をもつことで、生まれたアウトプットにも何の固定された意味合いを期待することは本来できないわけです。
しかし、調査、分析する側からすれば、見えない意識のプロセスを相手にはできないため、出されたアウトプットのみを対象とするあまり、そこに何らかの固定的な意味を見出そうという誘惑にかられたりもするのでしょうけど、それは必ずしも正しいアプローチとはいえないわけです。

与えられた事実から何らかの仮説を抽出しようとする場合でも、常にこうした点を考慮に入れておく必要があると強く感じています。

関連エントリー

posted by HIROKI tanahashi at 13:53| Comment(2) | TrackBack(1) | 脳科学、認知科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
意識と無意識の間の前意識を考えること、それは人の連続性を表していること。

どんなことにもいえますね。それこそデカルト的二項対立、可視化された行動主義にかけてしまう、とても大切な「何か」だと思いました。

哲学とは実はそこを深堀しているのですよね。特に日本哲学は。
Posted by ちさ at 2007年01月15日 13:43
日本哲学、あんまり読んだことはありません。
でも、いま読んでる『内部観測とは』と先日読み終わった『生きていることの科学』は、ちささんのいう日本哲学にきっと近いと思いますよ。
Posted by tanahashi at 2007年01月15日 23:53
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

哲学にも物理学にも数学モデル表現の効用あり
Excerpt: 哲学の論文も数学的な字面になってきて、いかにも真面目な研究に見えます。学会で発
Weblog: 全裸の(知性の)女神ハテナ
Tracked: 2007-01-17 22:29