2013年01月15日

バズ・ワールドを肯定的に生きる

バズワードという言葉が意味をなさなくなるくらい、あらゆる言葉の意味が流動化して、日々どんどん意味を変えていくのがいまという時代なのかなと感じます。



そして、その不安定さは単に言葉の問題だけじゃありません。
モノや人や組織などの価値=意味も、バズワードのようにあるとき価値をもったものが次の瞬間には意味を失うという非常に不安定なうつろいがごく普通に起こっています。
その様は、もはやバズワードというよりバズ・ワールドと呼んだ方がよいでしょう。

休む暇もなく、終わりのない活動ができることをポジティブに捉える

市場をリードしている商品やブランドがあっという間にコモディティ化してしまうのもそうした1つの例でしょう。

ヘンリー・チェスブロウが『オープン・サービス・イノベーション』の冒頭で、まさにそのことを指摘しています。
製造拠点が世界中の低コスト地域に広がり、価格を下げるコモディティ化の圧力を受けて企業間競争が一段と激化する状況で、企業はものすごい速度でイノベーションをし続けなくてはいけないが、それでも結局はどんなに成功している企業でさえイノベーションの速度にはついていけなくなるこという指摘です。
チェスブロウはそれを走るのを止めればそこから脱落するランニングマシーンに喩えています。

イノベーションの最先端にいる成功企業でさえコモディティ化の罠にはまるリスクを持っている。つまり、イノベーションは、スポーツジムにあるトレッドミル(ランニングマシーン)のようなものだ。走り続けないと、トレッドミルから落ちてしまう。しまいにはビジネスというトレッドミルから脱落する危険さえある。どれほど必死に走り続けたとしてもイノベーションや投資を永遠に持続することは不可能だ。休む暇もなく、終わりのない作業なのだから。

昨年末からいろんな書き方で書いてきていますが、もはや「安定」ということを前提とする従来的な思考のパラダイムをあらためたほうがよさそうだなというのを強く感じます。そして、安定ではなく、チェスブロウが指摘するような「休む暇もなく、終わりのない作業」をする不安定な状態こそを当たり前と捉えるほうが現実の動きにあってるような気がしてます。



とはいえ、その終わりのない作業を、従来のような組織という閉じたシステムのなかで完結させようとするのでは必ず息切れしてしまいます。
そうではなく、チェスブロウが提唱するオープン・サービス・イノベーションの戦略のように、様々な人がある程度自由に参加できるプラットフォームを構築し、そこで参加者たちが自律的に生み出す価値が持続的にそのサービスプラットフォームの価値をあげていくような価値共創の場をつくることを目指すべきでしょう。

そのあたり、まさに前回書いた「「途中」を開放することをサービスとして捉える」ということにつながる点ですね。

ネコの目のように価値が移り変わるバズった状態をネガティブに捉えるのではなく、むしろ、常に状況を変化させながら次々にいろんな価値が生まれてくる状態をポジティブに捉えること。そんなパラダイムのシフトがいま起こっているんじゃないでしょうか。

学生・教師の自然なネットワークとして生まれたウニベルシタス(=大学)

ところで、そんな不安定で非線形的でありながらも持続的に新しい価値を生む出していくことができるこれからの社会のしくみがどうあるべきかを考えるにあたっては、僕が比較参照しているのは、機械論的で線形的に進歩する社会を前提としたパラダイムが定着した近代より以前の社会は果たしてどうだったか?ということです。

例えば、最近だと、近代以前の開かれた価値共創のネットワークの1つの例として、ウニベルシタス(universitas)と呼ばれた大学のことなどが気になっています。

以前にも紹介した『知はいかにして「再発明」されたか』という本では、ヨーロッパで12〜13世紀にパリやボローニャをはじめとする都市で生まれた大学が実は「意図して作られたものではななく、学生や教師のネットワークのもっとも密なノードとして自然にできた」ものであることが指摘されています。

「自然にできた」最古の大学の1つであるパリ大学などは、その起源をみても1150-1170年くらいといわれるように明確な創設年をもちません。
また、「自然にできた」ネットワークのノードだったのですから、当時の大学はキャンパスもなければ建物もありませんでした。
ウニベルシタス(universitas)という言葉自体も、そもそも物理的な場所を指す言葉でもなければ、「全方位的な知識としての普遍性、すなわちユニバーサリティー(univaersality)を表すわけでもなく」、「一群の人々を指す言葉」だったそうです。

職業訓練の場であるギルドとしての団体

もともとウニベルシタスは古代ローマ法で「宣誓した個人からなる団体」を指す概念でした。
それが12-13世紀のヨーロッパにおいては「元来聖職者や弁護士や医師の職業訓練の場」を指すようになり、その位置づけは「現代でいえば、ビジネスマンやジャーナリストやエンジニアの職業訓練の場所」のようなものでだったそうです。

ギルドのように、親方(教授)がいて、職人(つまり独身男[バチュラー]、今でも学士のことをバチュラーと呼ぶ)がいて、見習い(学生)がおり、やはりギルド同様、職業訓練を施すことを第一義としていたのである。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

と書かれているように、その当時、生まれた団体は、学生や教師のネットワークであるウニベルシタスだけではありませんでした。むしろ、ウニベルシタスは多くの職人たちのギルドが生まれたヨーロッパ中世の都市で、他のギルドを真似た職業訓練の場だったのです。

この職業訓練の場であるギルドが中世ヨーロッパの都市でが次々と生まれたようです。

ギルドもまた、中世の都市が流動性を持つようになったからこそ生まれたもので、中世の人々はまるで「シャボン玉を吹く子どものように」次々に団体を作った。都市の共同体や職人の組合だけでなく、教会の参事会や王国や帝国までが、ウニベルシタスと呼ばれた。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

この「シャボン玉を吹く子どものように」という表現がなんともバズっぽい雰囲気を醸し出しているように感じませんか?
この遊び感覚の軽やかさにバズワールドをポジティブに捉えている感じを受けるのは僕だけでしょうか?



都市化と労働分業

では、この時代、大学を含む職業訓練の場であるギルドが数多く生まれてきたのでしょうか。

ピーター・バークは『知識の社会史』のなかで「12世紀以降のヨーロッパでは、都市の興隆と大学の成立が同時に起きている」ことを指摘しています。

中世以前、ヨーロッパで知識を扱っていた場は、どれも辺境の地に建てられ、外部から閉ざされた修道院の内でした。それが変化したのがこの時代です。

古代末期以来、ヨーロッパの〈知識人〉が修道院の外の世界で目立つようになるのは、まさにこの時代からである。この面での発展が生じたのは、大学の発展と同じように、都市が興隆しそれに伴って労働分業が拡大した結果である。
ピーター・バーク『知識の社会史』

都市化とそれに伴う変化が起きたのは、12世紀のヨーロッパが11世紀からの経済的な成長が続いた時代だったからです。

長く続いた寒冷期が終わり農業の生産が上がり、人口が増えて、交易も盛んになったことで、各地に都市が生まれました。国や教会などの官僚制度が整備されて社会全体に広まったことで、人々は「誓いや伝統ではなく金や契約を通じてやりとりをするようになった」とマクニーリーとウルヴァートンは書いてます。そして、繁栄した社会で人々は旅をするようになり、「巡礼や商人や兵士や吟遊詩人や説教師がキリスト教圏の至る所に向かい、十字軍がキリスト教圏の外に散った」そうです。
こうした人々の流れが、知識や情報を流通させ、都市で暮らす人びとの価値観は常に更新される状態にあったのです。

この流動性は、その理由が繁栄という点では現在とは異なるものの、安定状態より不安定状態がデフォルトであるという点では現在の状況に似ていないでしょうか。
この不安定で流動的な都市社会において、中世ヨーロッパにおいても、ギルドという開かれたコミュニティが生まれたのです。

集うことで個を表現する

面白いのは中世の都市の住人たちがギルドという集団をつくる理由です。

現代人にはひどく奇妙に聞こえるかもしれないが、中世の人々は、集団を形成することで個としての自己を表現した。なぜなら、托鉢修道士から学者へ、市民へ、商人へと社会的な役割の名簿をどんどん押し広げて自分たちを守り、自分の存在を肯定するには、ともに集うしかなかったからである。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

「集団を形成することで個としての自己を表現」するということ。そのためにギルドという開かれた集団を形成する。自己表現のために集う集団。

ここでは「現代人にはひどく奇妙に聞こえるかも」と書かれていますが、僕にはむしろしっくりくる説明です。
いや、そう感じる人は多いのではないでしょうか。

先にこの時代のヨーロッパの都市では都市化にともない労働分業が起こった結果、たくさんのギルドが生まれたと書きましたが、この「労働分業」はそれまでの労働の形をあらたに再編するものでもあったはずですし、それに伴い、従来のコミュニティもまた再編を余儀なくされたはずです。

そうした従来のコミュニティからの再編に際しては、必ず人間のアイデンティティは危機に晒されるはずで、その危機から身を守ろうとすれば新たなアイデンティティが必要になります。もちろん、そのアイデンティティは形式的なものではなく自分たちの生活に適合したものでなくてはなりません。経済的にも生活を支え、文化として誇ることができるような。

そういう意味で、都市化とそれにともなう労働分業という再編に際して、当時の人々が新しいアイデンティティとして選んだものがギルドという場であっても不思議ではないのではないでしょうか。

バズワールドを生きるヒント

僕は、このギルドや建物をもたない大学であるウニベルシタスの柔軟で開放的なつながりをもった集団のあり方に、何もかもが不安定で流動的なバズワールドを生きるためのヒントがあるように感じるのです。

修道院という閉ざされた場所における、誓いや伝統といった固く安定した価値が去ったあとの中世、そして、印刷術と建物を有した大学により再び価値が機械的に固定化されているルネサンスから近代に至る歴史のはざまにある中世の「シャボン玉を吹く子どものように」現れては消える儚さをもったギルドというあり方に、この不確実な時代を生きる可能性を逆に感じるのです。

現代の組織とは異なるギルドのやわらかな、けれど、新しい労働を育み新たな個の表現を可能にするつながりに。

(もちろん、この中世の不確実なやわらかさと近代以降の機械論的予測可能性の対比には、写本から印刷本への移行にともなう視覚偏重文化へのシフトも大きく関連しているのですが、それはまた別の機会に)

 

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posted by HIROKI tanahashi at 22:16| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする