Wisdom of Crowds によって構成される自己

不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ」に、ちささんからトラックバックをいただきました。

最近日々感じることは、インタラクションすることではじめて自身を認識できるということです。「人は一人では生きていけない」というのは、経済的な面や生活の面からだけでなく、進化・成長の過程においても重要なことだと思います。それは認知発達学的にも脳科学的にも生物学的にも証明されてきているように思います。

「インタラクションすることではじめて自身を認識できる」。
そのとおりだと思います。そして、認識できるだけでなく、同時に「インタラクションすることではじめて自己が構成される」。

認識することと自己を構成することは同時に行なわれるのであって、そう考えることで現在の脳科学、認知科学では意識を理解するのに「脳内に棲みつく小さなホムンクルス」を想定する必要がなくなっています。

Wisdom of Crowds によって構成される自己

この「インタラクションすることではじめて、自身を認識できる=自己が構成される」ということを、別の表現で示すなら、自己そのものが Wisdom of Crowds によって構成されているといえるのではないかと思っています。

これは昨日の「人生においてタギングは不可避」というエントリーでも書いた「あなたは誰かに記号をつけているつもりでも、それは実は、同時に自分に記号をつけているということでもある」ということにも関係する話です。それは実際の行動として、ソーシャルブックマークでのタギングやブログでの言及などを行なわない場合でも、自分である対象に対して何らかの感覚、認識を行なった時点でタギングを行なっているといえ、それは対象に対するタギングであると同時に自身に対するタギング、タギングされた自己の構成にほかならないからです。

そして、脳はその意味において群集の叡智(Wisdom of Crowds)どころか、あらゆる環境、そして、生物誕生以来の途方もない時間をもった歴史とつながっているし、それなしでは現在のような意識、自己を構成することもありません。その意味で、自己そのものが Wisdom of Crowds によって構成されているといえるはずだと僕は考えています。

形式知と暗黙知

だからこそ、いまさらWebに絡めて Wisdom of Crouwds をことさら必要以上に持ち上げることは、何か「情報」というものの本質を見失っているように感じてしまったりします。
特に、それは「情報」あるいは「知」というものを、テキスト情報あるいは形式知に限定してしまうというような意味で。

Googleが世界中すべての知を整理するというような夢それ自体には僕もワクワクする気持ちを感じます。でも、だからといって、その「すべての知」には暗黙知や無意識的なもの、そして、何より主観的な意識が含まれていないことも忘れてはいけないと思っています。

同じように、Wisdom of Crouwds という場合にも、形式知のレベルと暗黙知のレベルの2つのレベルがあることを忘れてはいけないと思います。
もちろん、その2つは明確な境界によって分けられるわけではない。意識と無意識が前意識を介してなだらかにつながっているように、地と図の関係がいつでも反転可能であるように、それらは明確な境界をもちません。

ただし、Web上に、コンピュータ・ネットワーク上に乗る情報はあくまで形式知=記述可能なものでしかありません。
もちろん、「ディスプレイの向こうには生身の人間がいる」がいることで、この問題自体は実際にはさほど問題ではないはずです。それは基本的にノートに記録するのと変わりないし、面と向かって「言葉で」話をする場合と同じなのですから。

Wisdom of Crowds自体はいまにはじまったわけではない

しかし、だからこそ、「Wisdom of Crowdsの時代」がまるでいまになってはじまったかのような認識はあきらかに誤解だと思うのです。まるでそれがWebによって可能になったかのような言い回しはおかしいわけです。

それはヒトが言葉を話すようになったという情報化の拡張でしかないし、もうすこし範囲を狭めても、印刷技術やテレビなどのメディアの発展がパーソナルなレベルにまで拡張されただけに過ぎません。それは範囲の拡張であって、Wisdom of Crouwds自体がいまになってはじまったということではないはずです。

Wisdom of Crowdsが新たな段階に入っただけであり、そこで語られるべきはノードの数が増えたことによる自己組織化、創発的な現象が起こりやすくなったということだと思うのです。

マクロな視点とミクロな視点

こうした「自己組織化、創発的な現象」という意味で昨日の「人生においてタギングは不可避」のブックマーク・コメントとしていただいた「情報が大きくなりすぎると、主観的位置から物事の関係をプロットしていくしかないので。まさに最近のモノはこういう感じで計算されている」というコメントは大いに参考になりました。

情報が大きくなると、おそらく全体を見通す神の視点のようなものは想定できなくなるのでしょう。神の視点から集合を見る視点は内包的ですが、逆に「主観的位置から物事の関係をプロットしていく」というのは外延的です。
この2つの計算は明らかに異なるはずで、内包と外延は必ずしも一致しない。マクロな見方とミクロな見方には齟齬が生じる。これらは三人称的な形式知と一人称的な暗黙知のあいだの齟齬とそれは同質のものであるのでしょう。

いまのWeb技術によって、「Wisdom of Crowdsの時代」が生じるような議論には、実はこうした視点が欠けているのではないか?と疑問をもつのです。マクロな世界の法則とミクロな世界の法則が無条件につながることが想定されているようなそんな印象を受けます。そして、それは以前として非常にマス的な発想であるかのような印象を受けるのです。あるいは還元主義とでもいったほうがよいでしょうか。

これ、すごく大事なことだと思うんですよね。
本当の意味で、Wisdom of Crowds が、ひとりひとりの自己アイデンティティを構成するのに有益なものとして機能し、同時に有益なコミュニティを生み出しうるかという意味において

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  • 個の知覚変容
  • Excerpt: Wisdom of Crowdsは世界の変化ではなく、個の知覚変容だと思うわけです
  • Weblog: arclamp.jp アークランプ
  • Tracked: 2007-01-09 03:19