人というものは誰しも一言で説明が足りるような単純な像物ではないし、単純化しようとするとどうしても「記号」に頼らざるを得なかったりするものです。例えば「職業」であったり「好きなスポーツ」であったり「98年MBA取得」であったりはたまた「乗ってる車」であったり・・・。でもそういう「わかりやすい記号」で人は人を理解しようとしてしまう。そこに一番の危険な「分かったつもりの見当違い」が潜んでるのだと。
さつませんだい徒然草:タギングについて(ディスプレイの向こうには生身の人間がいる、ということ)。
確かに、僕自身、自分の書いたエントリーにつけられたタグを見て不快に感じたりすることもあります。それは自分自身の評価ではなくてもそう。たとえば、「あとで読んだら消す」みたいなタグをつけられることがあるんですけど、それってちょっとがっかりじゃないですか。
その点、さつませんだいさんがおっしゃてる「ディスプレイの向こうには生身の人間がいる」っていうことを知るというリテラシーは今、そして、今後ますます重要になってくるだろうなと思います。
記号は本来的に恣意的で構成的なもの
それでも、それに続く結論は「たぶん、それではダメ」って思います。だって、これを読んでくださっているアナタは、もしかしたら僕に何か記号を与えているかもしれないし、その記号がなんであれ僕の全てをあらわしてはいないはずだからです。
そういう怖さもあって、僕はなるべく人に安易に記号をつけないように心掛けています。ただ、記号をつけるっていうのは(ってかそもそもこの言い方がおかしいんだけど)、無意識かつ自然なことなので、このことについては余計に考えます。
さつませんだい徒然草:タギングについて(ディスプレイの向こうには生身の人間がいる、ということ)。
ここでさつませんだいさんが誤解されているなと感じるのは、そもそも記号というものは対象をありのまま表すものではないし、第三者には無意味であることも当然ありうるということだと思います。
多くの人が共有可能な記号というのは、実はすべての記号のうちのほんの一握りしかない。ほとんどの記号がその記号を扱う主体によって意味が限定されています。
それが以前から紹介しているパースの記号論でいわれていることですね。
記号は解釈項である主体が、対象の認識のために主観的につける表象にすぎない。いま読んでいる下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』という本にも、バーテンダーがグラスの形とそれに応じたカクテルの種類の対応によって、何十もある注文を覚えることができる例が示されていて、その記憶の仕方もバーテンダーの主観的ルールに依存していて、第3者には無意味なものでしかないことが指摘されています。
対象と表象は固定された1対1の関係が成立するものではなくて、むしろ、主体である解釈項によって、その都度、関係性が恣意的に構成されるものなわけです。つまり、ヴィトゲンシュタインのいうところの「言語ゲーム」を記号は逃れられないんだと思います。
記号化は人生において避けられない
そして、何より人が生きていく上で、自分が見た、触れた対象に対して記号を付与しないで生きていくということはありえません。それはいっさい何にも感じず、何も意識しないで生きていくことに等しいわけです。そして、記号化=タギングというと何か短いキーワードのことだけが対象であるかのように感じられるかもしれませんが、いまはまさにこういう時代です。
そして「Search Inside the Book」機能により、Amazonは本の内容そのものをメタデータに変えてしまった。ピーター・モービル『アンビエント・ファインダビリティ』
誰かに嫌な気持ちにさせないように気を使うことと、嫌な気持ちにさせたくないから記号化を避けることは同じではないし、何より後者は不可能だということです。
リテラシーというより礼儀の問題
また、ここでは何もネット・リテラシーの話など持ち出す必要もないのかもしれません。というのは、相手の気持ちを考えるのはリテラシーというよりは、もっと基本的な礼儀として当たり前の話だと思うからです。先のパースの記号論における三項関係を用いて、他人を、あるいは、他人が揚言したものに何かを感じる=記号を付与するというのは、このように表現できます。
そして、その記号化が自分の内部での表現にとどまらず、他人にも認識できる形で記号化された際には、相手が次のようにあなたの記した記号において、あなたを見ることになります。
さつませんだいさんがいう「ディスプレイの向こうには生身の人間がいる」っていうことはこういうことです。しかし、同時に「ディスプレイのこちらにも生身の人間」としてのあなたがいるわけです。
さらに、そのタギング=記号化がソーシャルブックマークやブログなどの第3者にも閲覧可能なものであるなら、以下のような関係も成り立ちます。
あなたは誰かに記号をつけているつもりでも、それは実は、同時に自分に記号をつけているということでもあるわけです。
いま、決定的に欠けている想像力、理解はむしろ、この点だと僕は思います。
これらの関係で重要なのは、同じタグでも解釈項によって解釈は異なるということです。
ディスプレイの向こうに生身の人間がいるということだけでなく、その人間は自分とは別の受け取り方をする可能性もあるのだということを想像できる力が必要なわけです。
そして、それは何もネットに限ったことではなくて、パーソナル・ブランディングなどという言葉があるくらい、それはあなたと他の誰かの関係性を考える上で基本的なスキルであり、情報社会を生きるための必須のノウハウだと思います。
情報社会におけるパーソナル・ブランディングの表と裏
ブランディングという言葉をつかうと、どうしてもプラスの側面ばかりを想像するでしょう。しかし、いま企業においてCSR(企業の社会的責任)が厳しく問われているのと同様に、個人においても、プラス側面とマイナス側面での注目の集まり方はほぼ表裏一体の形で、問われることになります。かつてであれば、記号化による誹謗中傷の憂き目にあうのは、それこそ一握りの有名人だけで済んだでしょう。しかし、総表現社会という言葉で示される現在、そして、これからの情報社会においては、記号化の対象となるのは、決して一部の限られた人ではなく、ほとんどの人がその対象となり、同時に記号化を行なう側にもまわります。
あなたが今まで著名人や著名人の表現したものに対して、身勝手な評価を下していたのと同様の、身勝手な評価にあなたは晒される可能性があるということです。そうなったときに突然、「生身の人間」うんぬんを持ち出すのはお門違いともいえるでしょう。だって、著名人だって生身の人間以外の何者でもなかったわけですから。
そうなると、記号をつけられたくない、記号をつけたくないというのは、税金を払いたくないというのと同じぐらい、浮世離れした考えでしょう。
そうではなく、いかに自分と相手、そして、その関係を取り囲む社会環境との関係に不具合を生じさせないよう、気をつけて記号化を行なうか、また、何か不具合が生じた際にどうリカバリーをするのかを考慮できるスキル、たしなみを身につけることのほうがはるかに現実的だと思うのです。
また、記号をつけられる立場で考えられば、著名人がきっと今までそうやってきたであろうのと同様に、いちいち目くじらをたてない寛容性を身につけることも一人ひとりに求められるのでしょう(もちろん、これはすべてに泣き寝入りしろといっているのではないので間違えないように)。
見るということは同時に見られるということであり、何かを語るということは同時に聞かれるということでもあるわけです。この相互に連動した関係を意識せずに、自分の側からの一方的な眺めだけで動いてしまうことが問題なのではないでしょうか?
この記事へのコメント
ぬぼ
恣意的な記号化を受け入れたとき、その先にある未知なるコラボレーションに夢を抱くか、恐れを抱くか、というところなのかも知れないですね。
Net上に表現しているのですから、自分の言説が他の人に何らかの影響を(「知ってほしい」ぐらいでも)与えることを期待しているとは思うのですが、その覚悟の度合いは人それぞれですから。
覚悟が大きければ、見返りはきっとそれなりにあるものと思います。
tanahashi
覚悟とはきっと別のエントリーで書いたアイデンティティ(自分と他者の)につながる話だと思いました。
http://gitanez.seesaa.net/article/31013988.html
おたこはん
↑「相互に連動した関係」に意識が働いていないことの表れ?
読みながらふと思ったのですが、著名ブロガーを生み出したこの次には「著名タギンガー」が生まれるのかなぁ、なんて思いました。
tanahashi
著名度合いにもよりますけど。