2007年01月06日

脳の来歴

昨日も紹介した下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』という本では、そのサブタイトルにもあるように、意識をもつ脳を単独の器官として捉えるのではなく、身体や環境とつながった、さらには身体的経験や環境における経験の履歴との強い連携(カップリング)をもったものとして扱っています。

脳だけでは意識は生まれない

これはジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』でも示されていたことです。

ホフマイヤーは、意識をつかさどるのは、通常考えられているような神経系の特権ではなく、自己と外部の区別を認識することではじめてその機能が成り立つ免疫系もまた、ヒトがもつ意識の形成に大いに影響を及ぼしていることを強調しています。

先日、紹介したジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』でも同様の見解がみられます。つまり、『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』でも「身体に根ざしていない脳の機構、環境とその歴史に結びついていない脳の機能は、そもそも無意味」という見解は「最近多くの認知科学者、認知哲学者、人類学者などによって、さまざまなかたちで述べられて」いる、ある程度、一致した見解となっているようです。

人間それ自体が情報からできている

もう1つ年末に読んだ茂木健一郎さんと田中洋さんの共著『欲望解剖』にも、こんな記述がありました。

これはおそらく人間それ自体が情報からできているからです。その意味ではドゥルーズたちの行った「根源としての欲望」という考え方がまざまざと実感できるでしょう。つまり我々人間は情報でできており、人間=情報は自らを拡大し、より豊富な存在になろうとする。人間という存在を超えるのが情報であり、情報こそが「欲望する機械」なのです。

上記は、田中さんのパートからの引用ですが、この言葉自体、とても現代のマーケターらしい見解だと思って、僕にも共感できる部分がすごく大きい。ただ、その一方で、脳科学や意識といったものの視点から、再度、この見解を鑑みると、実はすこし誤解を招くような表現もここにあるのも事実です。

誤解を招くというのは、「人間それ自体が情報からできている」という際の「情報」が言葉や文章のように固定化された情報であるかのように、この表現からは感じてしまうだろうという点です。
しかし、実際にはヒト(いや、ほかの生物でも同じなんですけど)の記憶というものをより正確に理解するなら、それが誤りであることはわかるのです。

1つにはまず記憶が構成的であるということ。それはそもそもの記憶を形成する際にも、事実とは異なる記憶や実際に体験していないことの記憶を経験するという意味での構成的というのと、もう1つは、記憶の再生時にも外部の環境や記憶再生時の体調や気分が大きく関わっており、それが再生される記憶内容を変化させうるという意味においてです。

その意味では、「人間それ自体が情報でできている」という場合でも、その情報は僕たちが日常的な意味で用いる「情報」というよりも、そうした情報をそもそも構成するためのメタ情報的なものとして捉えたほうがよいということです。

この情報とメタ情報の関係をしくみとして理解するには、エーデルマンのダイナッミック・コア仮説が役に立つのではないかと思います。

脳の来歴

さて、では、下條さんの「脳の来歴」という考えについても見ていきましょう。

そのような脳が環境により適合するように自らを変え、その結果、知覚系と行動系が環境に対して完璧に適応的なものとなる。そこで、環境が突然激変したときには、過去に根ざしたこの知覚と行動の記憶の総体が「錯誤」をもたらす。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

サブタイトルには「脳の来歴」ともう1つ「知覚の錯誤」というキーワードが用いられているように、下條さんは、いわゆる錯視をもたらしたり、行動経済学で指摘されるような認識傾向をもつ、ヒトの意識が性質としてもっている「知覚の錯誤」から、「脳の来歴」という考えを説明してくれています。
つまり、上記の引用にもあるように「錯誤」はある特定の環境への適応が必然的にもたらす、別の環境に遭遇した際の誤認であるということです。

同時に、環境が激変しないとき、あるいはしても適応に十分な時間が与えられたときには、錯誤の逆の「正解」、すなわち適応的な知覚あるいは行動をもたらす。これが、私の考える構図です。そして、いま述べた経緯の総体を、私はここで脳の「来歴」と呼びたいと思います。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

下條さんは1970年にブレイクモアとクーパーが行った「縞飼育ネコの実験」を例に、この「脳の来歴」という考えを説明してくれています。

この実験では、暗室で育てられた生後3-14週の子ネコを1ヶ月間、縦と横のいずれか一方向の縞模様に囲まれた環境で育てます。縦縞の環境で育った子ネコと横縞の環境で育って子ネコを1ヶ月後、通常の環境に戻すと、とても奇妙なことになるのです。

たとえば、足元に縦長や横長の積木がたくさん置いてあるとする。垂直縞ネコは縦長の障害物は薬味にすり抜けて歩くが、足元の横長の積木には気づかず、つまづいて転んでしまう。他方水平縞ネコの方はその逆で、横長の積木は難なく飛び越えるが、縦長の積木にぶつかってしまうはずです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

つまり、ここでは同じ環境が2匹の子ネコには、まったく別の環境として認識されているわけです。2匹の子ネコは実際の空間を共有しつつ、別の世界に住んでいるということになります。

構成的な情報、そして、言語ゲーム

ようするに、僕たちも含めて生物は、外部の環境をありのまま認識しているわけではないのです。同時にそれは、外部の環境から与えられる情報と僕たち自身が意識する情報、あるいは僕たちの身体が感知する情報がまったく1対1対応の形で構成されていないということも意味するはずです。

対象とそれを表す表象が1対1あるいは1対nで関係付けられた情報の構造を想定してしまうこと自体に間違いがある。それはもっとネットワーク的で、かつ構成的な関係にあると捉えなければいけない。情報は決して固定的であるわけではなく、記憶同様に構成的なはずなのです

これはヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだものとも大きく関係する考えです。言語ゲームにおいては、通常の集合論的な関係が成立しません。そこでは必要条件の記述も、十分条件の記述も成り立ちません。
これはいわゆる一般的なツリー構造や階層構造の考え方を困難にします。
この時点で、この問題は現在のインフォメーション・アーキテクチャの問題につながってきます

長くなったので、この問題についてはまたあらためて考えることにします。

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posted by HIROKI tanahashi at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳科学、認知科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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