コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?

最初に、結論からいうと「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」なんてことを思いました。

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そんな風に考えたのは、昨日、ロフトワークさんの主催の「ソーシャル時代のWebライティング」というイベントに出席させていただいたからです。

いやいや、そこでお話しされていた内容を否定することを考えたわけではないんです。

Web Professional編集長の中野克平さんとインフォバーンの成田幸久さんのお話はやっぱりプロの人は、ちゃんとオチとか構造とか読まれるための見出しとか、どうしたら読んでもらえるかということを考えて文章を作っているんだなと当たり前のことに感心しました。
翻って、自分が文章を書く際のことを思うと、お2人がお話しされていたことをほとんど意識していないことにも気づかされたんです。うーん、だから、読まれるものと読まれないもののバラツキがすごくあったり、基本的には読むのに覚悟がいる「読みやすさには配慮されていない文章」になるんだろうなと思ったりもしました。

でもね、でもです。
コンテンツとして書かれた内容がおもしろければ、それでいいんでしょうか?と僕なんか考えてしまうわけです。読んでおもしろかった、けど、何? わたしはそれでどうしたらいいの?って読んだ人が思ったりするのは考慮しないの?とかも思うわけです。これは「どうしたらライティングできるか?」という昨日のテーマとはすこし捩じれた位置にある話なんですが、僕なんかはそこが気になって仕方ない。

ということで、冒頭の結論に通じる僕の考えを下手な文章でまとめてみようと思うわけです。

コンテンツは「書く」ことの単位ではない

お2人が話していたことと、僕自身が文章を書くときの1番大きな違いは何かと考えていたのですが、僕の場合、文章を書く際のモチベーションがコンテンツ単位になっていないんですよね。

1つのコンテンツが読まれるかどうかは、僕にとってそんなに重要なポイントではないし、1つのコンテンツで他人に何かを伝えようなんてことをまったく考えていなかったりします。
というのは、人が、僕が書くものを読んだり読まなかったりしながら、なんとなくその複合的な体験の結果、伝わっていくものがあればよいなと思ってるからだと思います。

なので、僕が文章を書く場合は、「連載」とか「前編/後編」とか明示されているかどうかに限らず、複数のコンテンツがつながっていることがほとんどですし、ブログの記事を書く場合でも、それをFacebookやTwitterで告知することや、次の日にどんな行動をするかとかも含めていっしょくたに1つの単位として構想されてたりします。
いまもこのDESIGN IT! w/LOVEのほか、会社で担当している「Think Social Blog」でも、ビズジェネの連載「ThinkSocialな時代のビジネスデザイン」でも記事を書いていますし、もっと細かい単位では、DESIGN IT! w/LOVEのFacebookページ個人のTwitterアカウントでも文章を書いています。
そんな複数のメディアを通じて発信する総体から何かが伝わっていけばいいと思っているので、個別のコンテンツをとにかく読んでもらおうとかいう思いはそんなには強くなかったりします(もちろん、読んでもらえればうれしいのは間違いないのですが)。

ということもあって、僕の「書く」ことの単位ってコンテンツじゃない。複数のコンテンツが連携した状態を単位だと思っています。
もっといえば、僕が1つ文章を書くことによって得られる他の方からの反応も含めてが、僕の「書く」という単位になっている。
この感覚が、僕が、前回(完成形ではなくソースデータが提供/入手される市場環境)前々回(はじまりもおわりもない創造の連鎖に参加する)と書いてきたような、フリーカルチャー的な文脈での「ある作品が連続する創造の連鎖のなかで別の作品の素材となる」ような視点に共感する理由でもあります。

なので、あまり1つのコンテンツの構造とかオチとかはそんなに重視しないし、そこにポイントを置いて考えることをしないんですよね(というか、そういう発想にならない)。

「読む」という行為はそもそもコンテンツに縛られない包括的な体験ではないか

そんな複合的な状態を「書く」ことの単位だと思うのは、やっぱり僕にとって「読む」ということの単位がそういうことだと思うからです。

本だろうと、Webのコンテンツだろうと、それがそういうメディアのなかに閉じ込められた状態だけで読まれることってないよなーと思ってるからです。「読む」という行為はそもそもコンテンツに縛られない包括的な体験ではないか、と。

その点では、僕は、そもそもグーテンベルク以前の中世的な写本文化(声に出して読まれる本)に近い発想をもっているんだと感じます。大量生産されたメディアを個々の読者に渡しているという発想があまりなくて、1つの文章というものをきっかけにいろんな人が繰り広げる雑多な体験をつくっているて最初から思っているんだと思います(「読書体験のイノベーションの先に…」参照)。

印刷はそれ自体が商品であっただけでなく、多くの大量生産商品の作り方と売りかたの模範となり、「同じ」ものを欲し、「同じ」ものを買う市場を創出したのです。そして「同じ」を共有する国家を可能にし、国民軍の組織化を可能にしました。さらには線形システムの上での科学的思考と「同じ」結果を得ることを目的とした実験を可能にしたのです。
(略)
読書が編集であるということを体験的に知った瞬間、本はどれも同じ大量生産品であるという、印刷革命以降、当たり前になっていた前提が崩れるのではないでしょうか。体験であれば、それは体験した人によって異なるのですから「同じ本」というのはなくなります。少なくとも「同じ本」であることの価値が薄れるのではないかと想像されます。

「書く」という行為が最終的に生みだされるコンテンツのなかに収まる活動でないのと同じくらい、「読む」という行為も決して読んだコンテンツに縛られず、読む人それぞれのもつ経験や価値観などによって大きく変化するものだと思います。
そのことを忘れて、物理的に同じと同定できる「コンテンツ」があることを理由に、読むという体験まで1つであるかのように誤解してしまうケースがあるように思います。

「書物は、必ずしもテクストと同じものではない」

そして、そもそものコンテンツのほうも、「版(version)の危機」で、

書物としての『平家物語』にはさまざまな異本があるといいます。しかし、それがもともと民間説話や武勇伝として口話として語られていたものを編纂したものだとすれば、異本があっても不思議ではありません。むしろ、現在、決定稿とされるもの自体が、そうした異本や元の民間説話から生まれたものであって、全くオリジナルという意味はもちません。
同時に、平家に対する鎮魂の目的で僧侶たちによって語られた『平家物語』の無数の原型は、その型を洗練させていきながら民衆に愛される芸能となったといいます。その時、僧侶は平家語りを専門とする演奏家集団に成長しはじめました。その名を當道座(とうどうざ)というそうです。

という具合に『平家物語』の例を出して説明したように、グーテンベルク以降の大量生産品である印刷本をベースに考えたのでは、本来のテキストの可能性を狭めてしまいます。
そう。大量生産されて望めば誰もが所有可能な本だったり、誰もが好きなときにアクセス可能なWebページに書かれたテキストのみを想定したのでは、そこにアクセスしようとするたびに実は形を変えつつも、それに接する人には同じ物語と感じられたであろう平家語りを専門とする當道座のような"ライティング"の可能性が見失われてしまうでしょう。



そのことは以下のようなメアリー・カラザースが『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』で行った指摘をみてもわかります。

書物は、必ずしもテクストと同じものではない。「テクスト」とは、人間が文字による作品を作る材料である。私たちにしてみれば、テクストは必ず書物の形をとっているので、書物とテクストの区別があやふやになり、失われてさえいる。しかし、記憶文化の中では、「書物」は「テクスト」を覚える手段のひとつにすぎず、忘れがたい言行を記憶に供給し、また記憶に合図を送るものだった。したがって、書物は、それ自体が記憶を助ける手段だった。

僕はこんな視点から、「本」だとか「Webコンテンツ」だとかといったメディアに囚われずに、テキストの可能性を、読者(いや、正確にはテクストによる思考やダイアローグに参加する人たち)の体験という観点からとらえなおすことが「ソーシャル時代のWebライティング」には必要だと思っています。

そう。言ってみれば、「書く」単位というのは、書き手の側にではなく、読者の側にあると。

あなたとの関わりを通じて顧客が体験することは、すべて、あなたのコンテンツと考えるのだ

そして、そうした観点に立てば、『リーン・スタートアップ』で、エリック・リースが、製品(product)というものを、一般的な意味での「製造された有形なモノ」としてではなく、顧客にとっての価値という視点からより広い意味でとらえた、次のような考えにも通じる「テキスト」のあり方を考えることができるようになるはずです。

私としては製品(product)をできるだけ広くとらえ、顧客となる人々にとって価値を生みだすもの、すべてを指すと考えたい。ある会社との関わりを通じて顧客が体験することは、すべて、その会社の製品と考えるのだ。食品雑貨店であっても電子商取引のウェブサイトであっても、コンサルティングサービスであっても、あるいはまた、社会福祉事業の非営利機関であっても同じだ。いずれの場合も、組織は顧客とって新しい価値の源を発見しようと努力するし、その製品が顧客にどのような影響を与えるのかを興味の対象とする。

「ある会社との関わりを通じて顧客が体験することは、すべて、その会社の製品と考えるのだ」
この「製品」を「コンテンツ」に置換してもよいのではないでしょうか?
ついでに「会社」を「あなた」に置き換えてみると、こんな風にいえるのではないでしょうか?

「あなたとの関わりを通じて顧客が体験することは、すべて、あなたのコンテンツと考えるのだ」

こう考えると、コンテンツを書くという意味がまったく変わってきませんか?

「どうライティングするか?」という制作者の立場で考えてしまうと、ついついコンテンツ単位で考えてしまいがちです。
書いたコンテンツをちゃんと読者が読んでくれるか、どうしたら読まれるコンテンツを書くことができるか?と。

けれど、それは製造業の人が「顧客視点」といいつつ、自分たちがつくる製品を通じてしか顧客をみることができないのと同じです。その製品を欲しているはずの人が本当はほしいはずのサービスや情報提供、あるいは、製品との関係(購入ではなくシェアとか)も含めた、利用者の体験という視点から包括的な目でみることができないのといっしょです。
自分たちの「書く」という行為を、1つのコンテンツという狭い範囲に閉じ込めすぎてしまい、その外にも「読む」ことにつながった読者の体験がもっともっとあることに気がつかなくなってしまうのではないか。

僕はどうしても、そこに違和感を感じてしまうのです。

Webという文脈でいうなら、それは書くという活動だけでなく、Webサイトをデザインし、制作するという場合でも同じです。自分たちがつくるサイトを単位だと思うと、その時点で間違いです。
サイト自体は使いやすくなったりするようになるかもしれませんが、そこで終わりです。
終わりというのは、使いやすいことは使う理由ではないからです。使いやすさが保証されても、ゆーざが使ってくれるとは限らない。使ってくれなかったら、終わりです。

エリック・リースも言っています。

「この製品を作れるか」と自問したのでは駄目。いまは、人間が思いつける製品ならまずまちがいなく作れる時代だ。問うべきなのは「この製品は作るべきか」であり「このような製品やサービスを中心に持続可能な事業が構築できるか」である。

このコンテンツは書くべきか。このサイトは作るべきか。そして、そのコンテンツやサイトによって、利用者との持続的関係は構築できるか。それこそが問われるべきなのでしょう。

だとすれば、うまく書くこと、うまく作ることの前に、考えるべきことがあるはずです。

とめどないおしゃべりと、雲でつながった絵巻物の文章

僕自身の「書く」ことについての話に戻りましょう。

そもそも僕の書いているものがいわゆるコンテンツとしての文章なのかというと自分ではそうじゃないと思っていたりもします。

というのも、僕が書くものは、基本的にはたまたま頭で繰り広げられるおしゃべりが文字になって表現されているだけで、その意味では、取り留めなくつながったおしゃべりの1断片が文章化されているといった感じに近いと思います。本人がそのつもりで書いているので間違いないですw

なので、そもそもがたまたま切り取られた断片だったりするので、単位といえるようなコンテンツの体を成していません。本当はもっと大きな単位の一部分を拡大して提示しているというイメージに近いんだと思います。

昨日のセミナーでも、中野さんが、日本人のおばちゃんの「でね、でね」でつながれる、とめどもなく続く話と、古い絵巻物に書かれた日本のテキストが脈絡もないのに雲の絵でつながれることで1つの巻物になっているというのって似てるよね、という話をされていましたが、僕自身が「書く」という行為をする場合ってそれに近いんです。

頭のなかのおしゃべりを切り出して表現するといいましたが、1つのコンテンツにする際、別々に考えたことを無理矢理1つのコンテンツに押し込めることって、すくなくありません。

この記事でもまさにそれをやっていて、中世のテキストの話をしてるところとか、リーン・スタートアップのところなんかは、まさに別のときに考えたことをこの文章を書くために、無理矢理いっしょにしてます。
構造的には、おばちゃんのとりとめない話や絵巻物の構造と同じです。
あるいは、数回に分けてつぶやいたTwitterのつぶやきをトゥギャったものに毛が生えた程度です。

そもそもの1つのコンテンツのなかがそんな風にごった煮状態というのも、それを1単位と自分では考えにくい理由だったりします。だって1つのコンテンツと別のもう1つのコンテンツが切れてる理由って、僕にとってはそんなに大きな意味がなくて、たまたま文章量の観点から2つに分けてるだけだったりするので。

でもね、でもです。

でもね、当たり前ですけど、こんな書き方をしてると、やっぱり読みにくいし、何を言いたいのかわからない文章にはなりやすいんですよね。
いくら読み手の体験がコンテンツ単位というより、もっと包括的だからといっても、どのコンテンツも読むに値しないようなつまらないものだとしたら、体験もなにもないわけです。

だから、冒頭に書いたように、僕が書いたものって、読まれるものと読まれないもののバラツキがすごくあったり、基本的には読むのに覚悟がいる「読みやすさには配慮されていない文章」になったりしてしまうんです。

これではマズい! そう思うんです。

なので、やっぱりこの状態を脱却するためにも、昨日お聞きしたライティングのコツや『Webライティング実践講座』を読んで参考にしながら、もっと読んでもらえるコンテンツを書けるように精進しようと思うわけです。
中野さんの「コツさえ分かれば文章は誰でも書ける」という言葉に勇気をもらいつつ。

というわけで、ライティングのコツをつかめるよう、がんばっていきますので、これからもDESIGN IT! w/LOVEをよろしくお願いします。

  

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