2012年12月19日

完成形ではなくソースデータが提供/入手される市場環境

製品や作品といった制作物の完成形を提供するのではなく、結果としてそれらを生み出すことができるソースを提供する。



ソフトウェアの分野でのオープンソースがそうであるように、提供するものを完成形の制作物だけに限定せずに、それを実現するためのソーフコードも配布することを、ソフトウェア以外の分野でも行えるようにすることで、完成形のバリエーションを生み出すことが可能になり、画一的なものになりがちな分野や経済の形に多様性が取り戻せるのではないか。

最近はそんなことを考えています。

料理のソースコードとしてのレシピ

これまで一般の生活者は、制作物の完成形としての製品を入手することが普通でした。生活者は自分が利用するモノの制作の過程には関与せず、完成形として与えられたものを利用するのみでした。

けれど、生活のなかの一部の領域では生活者自身が「つくる」ことに関わるものもあります。
たとえば、一般的な生活者でも、料理は自分でつくります。その際、クックパッドや料理本などに掲載されたレシピなどを見て料理をすることもあるでしょう。
僕自身もそうです。レシピに頼りすぎているので、何も見ないでつくれる料理は本当に数えるほどしかありません。けれど、レシピさえあれば大抵のものはつくれます。

この場合、レシピはある意味で料理のソースコードと看做すことができます。

ソースコードがオープンになっているおかげで、何も見ないでつくることができる料理の数が限られている僕でも、レストランに行って完成形の料理を出してもらわないと食事ができないということはありませんし、それどころか本当に数多くの料理のバリエーションを家で口にすることができます。

しかも、このレシピはクックパッドなどのおかげもあり、誰もがインターネットを介して入手可能なオープンなソースコードです。クックパッドなら、レシピをすこしアレンジしたものを再配布することも可能なのですから、増えたバリエーションも多くの人で共有可能です。
これってまさにオープンソースのソフトウェアと同じような性格をもっているといえるのではないでしょうか(レシピといっしょに料理自体は提供されないことを除けば)。

僕の場合だと自分でつくるのは料理くらいですが、人によっては、着るものを自分でつくったり、自分や家族が使う様々な道具を手作りされる方もいるでしょう。まったく独創的につくられる方もいると思いますが、それ以上に料理のレシピにあたるソースコード(服なら型紙とか)を利用している人はもっといるでしょう。

こうしたオープンになったソースコードがもっといろんな分野で提供されるようになると、社会の暮らしの様相がこれまでとは違ったものになって面白そうだなと思っているんです。

ソースコードがオープンになることで完成形のバリエーションが増える

ソースコードがオープンになることで期待しているのは、先にも書いたとおり、それによって完成形のバリエーションが今よりも多様になるだろうと思っているからです。
もちろん、『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』が描くオープンソース・ハードウェアの世界も含めてです。

従来、大量生産の形で決まった形の最終制作物を製造販売していたメーカーも、いまはカスタマイゼーションの方向で製品のバリエーションもかなり増えてきてはいます。とはいえ、オープンソースソフトウェアの世界のように、ソース自体をオープンにすることで、外部のいろんな制作者が制作に参加して、それぞれがソースを元に適宜カスタマイズした完成形をつくる場合に比べれば、そのバリエーションの豊富さは決してかなわないはずです。

ヘンリー・チェスブロウが『オープン・サービス・イノベーション』のなかで、外に対してオープンにしたサービスのプラットフォームを構築することがコモディティ化の時代に競争優位性を築く1つの戦略であるとしているのも、それが理由です。基本的には、サービス・イノベーションのプロセスをオープンにすることで、顧客との共創や、外部パートナーによるサービスバリエーションの開発によって、提供可能なサービスの価値の多様性が生まれ、それが他社の追随をむずかしくして競争優位性としてはたらくのです。

成功するプラットフォームは、サプライヤーと顧客の両面を市場としてとらえることが必要である。市場の片面では、数多くのサプライヤーが顧客に数多くの選択肢を提供し、もう片面では、数多くの顧客が商品を探している。選択の幅が広いほど、多くの顧客が集まり、選択の幅がさらに広がる。こうして市場の供給と需要の間に好循環が生まれる。これは偶然の結果ではなく、他社を引き込むということを、意図的に考えなければならないからである。つまり、プラットフォームの開発は、内部と外部の要素を結びつけるアーキテクチャを作らなければならない。

ビジネスとして展開するサービスであれば、そうしたプラットフォームや、すくなくともサービス・イノベーションのプロセスをオープンにするためのしくみが必要です。チェスブロウは「製品を内部・外部のイノベーションを取り込むプラットフォームへと変換し、そのプラットフォームを中心に幅広い付加価値サービスを加えることで、企業は容赦ない価格競争から抜け出せる」とも言っています。
つまり、いま必要なのは製品をつくること自体ではなく、顧客やパートナーをはじめとする外部の人たちが参加しやすいサービスプラットフォームを実現するためのタッチポイントとなるよう、サービスシステム全体のなかで製品を位置づけることです。

このオープンなサービスシステム全体をデザインする方法を確立することがいま大事なことだと思っています。

「ソースデータの公開」とは?

前回の「はじまりもおわりもない創造の連鎖に参加する」の冒頭に書いた、こんな一文もそんな多様なバリエーションを生むオープンな創造活動を確立するためには何が必要か?ということに思いを寄せている点で同じ関心領域にあるものです。

普段は別々のコミュニティに属して生活している人たちが、何かの拍子に一堂に会して、同じ素材のアーカイブやら、たがいに話す機会やらを提供されて、いっしょに何かをするんだけど、ただし1つの目的やゴールを共有せずに、それぞれの考えに従って別々の目標に向かって活動を行う、そんなプロジェクトのあり方について考えています。

その前回の記事中でも紹介した、ドミニク・チェンさんの『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』を読んで、あらためてフリーカルチャーについて考えはじめたのが、ここで展開している内容を考えるにいたった理由の1つです。

その著書のなかで、チェンさんは、ある作品が自由であると見なされるために必要な条件の1つに「ソースデータの公開」を挙げています(その他の条件は「自由なファイル形式の使用」「技術的な制限の禁止」「追加の制限やその他の制約の禁止」です)。
この条件はチェンさんがフリーソフトウェアの思想をフリーカルチャーのコンテンツ向けに翻訳した形で作成したもので、以下が「ソースデータの公開」に関する説明です。

ソースデータの公開
作品の完成版が1つのもしくは複数のソースファイルの編集もしくは情報処理の結果として得られる場合、すべてに関連するソースデータが作品と同様の条件で公開されるべきです。これは楽曲の楽譜、3D画像のモデル・ファイル、科学論文のデータで、ソフトウェアのソースコード、その他の該当する情報を含みます。

この本が対象にしているものが主に、クリエイティブ・コモンズの対象となるようなコンテンツ・作品が中心になっていますので、上記のような例示となっていますが、はじめに書いたインターネットで公開されているユーザー投稿の料理のレシピもこの定義に照らし合わせると「ソースデータである」といるえることがわかると思います。

フリーカルチャーというと、既存の作品を別の作品の制作に自由に利用できるようにことを許可していることだけを想像してしまう人は少なくないと思いますが、以下の引用でチェンさん自身も指摘しているように、フリーカルチャーの意義はソースデータが公開されているかどうかで大きく変わってしまうということを僕らはいま理解すべきだと思います。

この定義は、自由な文化とは何かを考える上で、ある重要な前提を浮き彫りにしています。それはただ作品の自由な利用を許可することにとどまらず、作品の「源」となるデータを提供しなくては意味が半減してしまう、というように表現できるでしょう。

文化が自由であるということは、その利用への自由が保障されるだけでなく、その利用の便宜性もともに支援できる形をつくることで、それによって、総体としての文化の価値が高まることを目指す、とても共生的な考え方だと思うのです。

だからこそ、この姿勢をもっと広げて、生活文化の価値も共創して高めていけるような目的で、フリーカルチャーのしくみをより発展させられないかと思っているのです。

そもそも、何がソースデータに値するのか?

その際、しくみを具体的に発展させる方法を考えるうえで、大きな課題となるのが、それぞれの分野において、そもそも、いったい何がソースデータに値するのか?を明らかにしていくことでしょう。

チェンさん自身、こう書いています。

もちろん表現の領域によってはソースデータが何であるかについても議論の余地が多く残されています。

料理であればレシピ、衣服であれば型紙のようにソースデータが何かを明らかにしやすく、そのためにすでにソースデータの公開が行われている領域も一部にはあると思いますが、そうではない領域も多々残されています。

しかし、このように文化作品のオープンソース化を考えることはフリーカルチャーが目指す「開かれた文化」を構築する上では避けては通れないテーマだといえます。

と、チェンさんが言うように、従来は何がソースデータなのかをまったく考えてこなかった分野においても、あらためて制作物を構成するソースに値するものが何かを見極めていくことが、フリーカルチャーを生活分野的な領域などにも押し広げていこうとすれば、避けて通れない課題となります。

何がソースに値するかをこれまで考えてこなかった領域のうちには、それがわかっても実際に制作する手段が一般人には与えられていなかったものもあると思います。それがまさに『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』が描くオープンソース・ハードウェアの領域なのだと思います。

フリーカルチャー的な「作品は固定物ではなく、過去から未来への時間的な流れの中で作動するもの」というインターネットが可能にした新しいパラダイムは、「あらためて「創造とは何か」、「文化が活性化するためには何が必要か」という本質的な問題を再考する機会を与えていると考えられます」とチェンさんは書いています。
僕らはしっかりとこの再考の機会にこれらの問いに具体的なしくみの創出をもって応えていく活動をいく必要があると思います。変わり果てた環境に取り残され、成果のあがらない経済にテコ入れする意味でも。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 21:23| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする