脳は空より広いか―「私」という現象を考える/ジェラルド・M・エーデルマン

2007年最初の書評はこれから。

『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』は、脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンが、神経細胞群選択説=TNGS(Theory of Neuronal Group Selection)ダイナミック・コア仮説により、意識とクオリアの謎に迫る一冊。

年末に読んだニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』も面白かったが、こちらもより理論的な視点で「意識とは何か」というテーマを考察していて、非常に興味深かったです。
どちらもページ数にして200ページに満たないものなので、むずかしいテーマながらも最後まで一気に読める点でもおすすめ。

神経ダーウィニズム

さて、エーデルマンが提唱するTNGSという理論は、ダーウィンの進化論における中心的テーマである"集合的思考"を神経、ニューロンに適応したモデルであり、従来の脳をコンピュータやチューリングマシンになぞらえた既存のモデルとは大きく異なり、個体に固有のクオリアが意識になぜ宿るのかについてとても納得いく説明を可能にするものです。

TNGSには「発生選択」「経験選択」「再入力」の3つの原理があるといいます。

まず、発生選択、経験選択を経て、ニューロン、シナプスの膨大な回路、機能経路ができ、選択が起こるために必要なレパートリーが形成される。その上で、再入力と呼ばれる「いくつもの脳領域を結びつける並行的、同時進行的な信号伝達」により、脳内に知覚カテゴリーをもたらすマップが動的かつ再帰的に作成されるといいます。
この再入力により、脳は、構造の異なる要素が同じ働きをしたり、同じ出力を生み出すような縮退のしくみをもつことができ、原意識を可能にしているそうです。

原意識は、価値カテゴリー記憶を処理する領域と、知覚カテゴリー化を処理する領域とが再入力によってやりとりすることで生まれる。ようするに、このやりとりの結果、意識シーンが構成されるということだ。このようなやりとりはいわば意識部分を引き出すための"神経的取引"といえるが、この取引を主に担うのはダイナミック・コアで、基本的に視床-皮質系を拠点に営まれる。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』

ダイナミック・コア

エーデルマンがTNGSの核として用いているダイナミック・コア仮説は、なぜ意識が主観的なクオリアをもつのか、そして、それがコンピュータによる置き換えが困難なのかの説明を、非常にうまく納得のいく形で提供してくれるものです。

ダイナミック・コアの活動からクオリアへ、という現象変換が起きるということは、コアの神経活動によって高次元の識別がもたらされるということであり、言い換えれば、コアの活動なくして高次元の識別はないということでもある。つまり、その現象変換(すなわちたくさんの区別が重ね合わされた高次元の識別)は、コアのその神経活動によって必然的に引き起こされる。いや、厳密に言えば、その活動によって引き起こされるのではなくて、その活動と同時に生まれる特性というべきだろう。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』

ダイナミック・コア

上図は、意識プロセスをC、それに対応するダイナミック・コアの神経プロセスをC'とした場合の両者の関係を描いた図です。
外界からの信号、脳内そして身体のほかの部分からの信号がダイナミック・コアに作用し、さらにその活動C'が神経活動や動作に影響を及ぼします。コア・プロセスにより高次の識別が可能になります。そして、この高次の識別こそがクオリアであるとされます。

脳内のニューロンのネットワークのような複雑系において、再入力と呼ばれる縮退のしくみをもったプロセスが働くことで、「ひとまとまりに統合されていて脳内で構成される」「膨大な多様性をもち、次々と変化する」などの特徴をもった意識が生まれるというわけです。そして、それは脳内の神経プロセスC'が必然的にもつ特性であり、かつ、それが進化論的に実現されたのはその機能が高次な識別という生物の生存においてきわめて有利な特徴をもたらすからだったと、エーデルマンは述べています。

Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』

クオリアはなぜ主観的か

エーデルマンは「意識Cはコア・プロセスC'の特性」であり、それゆえ、いわゆる哲学的ゾンビ論はそもそも問題にならないと言っています。C'があってもCがないゾンビは論理的に不可能であるということです。

また、なぜクオリアが主観的であり、コンピュータへの置き換えができないかもこのことで説明されます。つまり、コア・プロセスC'そしてそれに伴立する意識プロセスCにおける「知覚カテゴリー化および記憶系への入力の重要な供給源が、その個体の身体から送られてくる信号である」から、意識は一人称的である以外にないというわけです。

「私という現象」への変換は、統合されたC'の状態を一人称的に伝えるなんとエレガントな方法だろう。神経系のこのような"ふるまい"を直接体験するのに、ほかに方法はない。この現象変換は、「私」に感知できるだけでなく、ヒトとヒトが交流する上でも、脳の中で繰り広げられる因果関係を示す指標として大いに役立ってくれる。繰り返すが、主観的な状態は、ダイナミック・コアの活動の特性をリアルタイムで映し出している。それはまさしくクオリア空間であり、その限りなく豊かな空間にある意識である。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』

テーマ的には決してやさしい本ではありませんが、エーデルマンはとてもわかりやすく丁寧に説明してくれていますし、巻末には用語集も用意されていますので、根気よく読み解けば決して理解できない内容ではないと思います。
意識について興味がある方は、ぜひ、ニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』ともども読んでいただきたい本です。

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