
“オープン・イノベーション”の意義について考えていると、そんな形が理想だなと感じるからです。
オープンな創造の場の意義
従来のように最初に、誰かが目的やゴールは決めてしまい、そのゴールに向かってプロジェクトの進行をマネジメントしていくやり方では、“オープン・イノベーション”は生まれえないと思うんです。オープンな創造の場に意義があるとしたら、やはり、立場の異なる者同士が関係しあうなかで当初は予測がつかないようなイノベーティブな結果が生まれてくる可能性が高いからなのだろうと考えます。
それを最初から誰か1人の視点だとか、みんなで協議した結果だとかで、はじめからこういうアウトプットが生まれるといいよねと決めて、そこに向かうことをプロジェクトの目的にしてしまうと、オープンであることの意義が薄れてしまうはずです。
だから、最初から目的やゴールの共有はしない。
アウトプットが求められる期日やどこで活動するかとか、こんなことがテーマで、こんなリソースが使えるよというのは共有していいのだけれど、決して最初からゴールを決めて進めるようなプランは立てない。
誰かがプランを立てたり、目的を提示したりしないことで、参加している人が最後まで自分事として、かつ自分の思考をフル活用できるようにして、けれど、参加している者同士、たがいに影響しあいながら、予想外の結果を生み出していく。
そんな形の“オープン・イノベーション”プロジェクトが理想だなと思うんです。
目的やゴールが従来の発想から抜け出しにくくする足枷になる
ただ、それって従来的なプロジェクト・マネジメントの常識からすると、よろしくないってことになるんでしょうね。はじめに目的やゴールも設定せずに、どうやってプロジェクトをマネジメントするのか?って。
でも、やっぱり、いまの時代、最初に目的もゴールも決められないくらい、イノベーティブな解決が必要な課題というのもたくさんあると思うんです。ゴールはもちろん、目的もはっきり定義してしまうとそれが足枷になって、従来の枠組みを超えた解決策が見つけ出せなくなってしまう、そんな課題がたくさんある。
そういう課題に目をつむったまま、従来型の目的やゴールを明確にできるプロジェクトにだけ取り組み続けていたら、いまのこの結構厳しい経済文化的状況から抜け出していくことはむずかしいんだろうなと感じませんか?
僕はそう感じるんです。
はじめの目的やゴールの設定自体が、従来的な発想のままなら、その後にどんなに良いプランを立て、良いマネジメントをして、その結果、すばらしいアウトプットが生まれたとしても、それは結局、解決策の実現化のプロジェクトでしかありません。
これまでにないものをアウトプットしようとしているのであれば、目的やゴール自体もこれまでにないものとして設定する必要がある。さらにこれまでにないアウトプットを創出する方法としてオープンな参加による多様性を活かそうとしているのなら、目的やゴールを決めるところにもその考えを取り入れない手はないと思うのです。
おそらく、これは企業中心の“オープン・イノベーション”では成立するのがむずかしい形でしょう。
企業もほかの参加者とおなじ立場になって、何が出てくるかがわからないプロジェクトに参加できるようになるか?が問われます。
アウトプットとしての創造物ではなく創造のプロセスに目を向ける
ここまで書いてきたような意味合いで、僕は、“オープン・イノベーション”を目指すのであれば、従来のように最終的にできてくるアウトプットばかりに価値をおく見方を、あらためる必要があると考えています。最初にゴールを明らかにして、そこへの線形的な道のりを描く形をあらためる必要がある。
オープンな場に参加してきた人びとが相互に交流を行うなかで参加者それぞれの意思で生まれてくるものに意味があるのだと思うのです。
誰でも参加が自由なオープンな場に集まってきたそれぞれの人の視点や立ち位置の自律性を維持したままの状態で、けれどお互いが顔を合わせることで刺激を受けたり与えたりしあいながらも、参加者それぞれが個々の想像力をはたらかせて何かを作り出していく。しかも、結果として生まれてくるものも必ずしも1つの結果に結実する必要もなく、同じ場で生み出されたシリーズでありながら、個別の創造性を維持している。そんな形が“オープン・イノベーション”の理想的な形だと思うのです。
そのためには、実は活動に目を向けるとき、従来以上に各プロセスの中身に視線が届くように、プロジェクトを眺める粒度を精細にしていく必要があると思っています。
最終アウトプットだけで評価するのではないことはもちろん、個別のプロセスのなかの要素に目を向ける際にも、最終アウトプットの創出に向けたプランに応じて評価していたのでは足りません(例えば、進捗率などでの評価)。より進行中のプロセスにおける個別の活動を自由に評価でき、かつそれを参加するメンバー間で共有して、他人の活動を自由に利用してそこから別のものを生み出すのに利用できるような環境があるとよいと思っています。
継承行為としての創作活動における「作品」と「作者」
そんなことをしばらく考えていたこともあって、前回の記事で書いた「ダイアログとデザインの未来Vol.7 アートの未来」という慶応SDMの公開講座でお会いしたのをきっかけに、ドミニク・チェンさんの『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』
チェンさんはインターネット以降の現代の社会における「作品」や「作者」といった概念の変化を指摘しています。
「作品」はそれ自体で完結する結果としてだけではなく、ほかの作品の「素材」として機能するようになったといえます。このことは、作品の創造の連鎖には終わりも始まりもないという文化的な観点につながります。ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
それ自体で完結する独立した結果ではなく、ある作品が別の作品の素材としても利用され、継承されていく創造の連鎖のなかの「作品」。
この「作品」という概念の変化に対応するように「作者」という概念も変化します。
ある作品とは、文化という流れの中で連綿と続く創作の連鎖の、ひとつの結節点であり、その作品の成立には単一の「作者」だけではなく、過去の作品や作者たちも関わっていると考えることができます。ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
作品や作者を独立した存在として捉えるのではなく、連鎖する創造のプロセスのなかの要素として捉えること。そんな「創造の連鎖」という大きな視点でみたとき、そこで起こっていることは先に“オープン・イノベーション”について書いていたことと重なります。インターネットというネットワークのなかに介した人たちが素材やテーマの共有だけをしながら、独立して創作活動を行い、それぞれが自由にアウトプットを生み出す。そうしたインターネット上での創作活動と“オープン・イノベーション”が重なってみえてくるほど、いまのインターネット環境では個々の作品や作者の影響関係が見えやすくなってきていることもいえるのだと思います。
開かれた作品、開かれた製品
その意味で、上の引用においては、「創造が連鎖する」という考え方自体が目新しいというのではないと思います。すべての創作活動がゼロからの創造ではなく、過去の作家や作品から影響を受けたものであるという認識は社会に共有されたものとしてありました。ここで新しいのは、あくまで、その創造の連鎖のおよぶ範囲が一部の限られた創作者の範囲を超えて、ごくごく一般的な人にまで広がったことや、その際のコストが非常に小さくなったり、連鎖があっという間に国や地域を越えて世界中に広まる可能性をもったこと、そして、その関係性が可視化されていることでしょう。
チェンさんもこう書いています。
以前は巨視的にしか見えていなかった文化という有機的なシステムの実態が、より高い分解能をもって見えるようになったということです。ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
そう。文化というのは、それ自体、生成を行う有機的なネットワークなのだと思います。その有機的な連鎖によって創造=生成を行う意味において、個別の作者や作品は、次の世代の作者や作品にとって素材でもあるし、情報源でもある。その循環が分解能が高くなるにつれ、見えてきたのが現在だといえます。もちろん、それは“オープン・イノベーション”が可能になった背景でもあります。
その創造の連鎖のネットワークは、江戸期の俳諧連歌のネットワークが、身分を超えた人びとの参加による、はじまりもおわりもない長い連歌の創造の連鎖を生んだのみならず、その同じネットワークによってそれまでは本としてもとめられた資料によってしか知られていなかった貴重な薬剤をはじめとする全国のめずらしいものを見本市として実際に見ることができるようにした平賀源内らによる物産展を可能にしたように(cf.「キュレーションが必要になる環境の条件は?」)、従来のような閉じた「製品」や閉じた「作品」とは異なる、新しいビジネスや文化の形を可能にしています。
iPhoneやiPadのようなプロダクトとitunesやApp storeが一体となったオープンなプラットフォームに代表されるように、開かれたネットワーク上で展開される新しい価値(アプリやコンテンツなど)の創出は、従来のプロダクトや作品のような終わりもないプロセスとして未来へと続いていきます。
オープンにすることで、そうしたコ・クリエーションによる創造の連鎖がひらき、経済や文化の総体としての価値が高まりやすい状況が生まれているのです。
このオープンさを僕らはもっと有効に利用していく必要があると思うのです。
学習とは創造にほかならない
チェンさんの本を読んで考えたことがもう1つあります。それは、「学習」という概念を、すでにある正解の取得であるかのように考えることから解放したいなということです。
チェンさんもこの本のなかで、
他者の知識や経験を継承するという意味に置いて創造とは学習という概念と不可分な関係にあるといえます。ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
と書いていますが、インターネットを通じていつでも継承が必要な情報にアクセスもでき、かつ学習意欲があれば読書会やワークショップの場を通じて「教師」なしでも学習できる現状において、すでに確立された確かな知をそのまま受け取ることを「学習」であると考えたり、その支援をする活動を「教育」と考えるのはそろそろ無理があるのではないでしょうか。
そうではなく、これからの「学習」は、過去の人びとが培った知をリソースとして継承することで自分(たち)なりの新たな知を生み出す創作行為であると考えた方がよく、その意味で、僕も、学習と創造は同じことだと感じるのです。
知のギルド
チェンさんはこうも書いています。著作権が導入されたことの最も重要な要因としては、16世紀にに登場したグーテンベルグの活版印刷技術によって、それまで宗教に従事する人や学者、王侯貴族といった一部のエリート層にしか可能でなかった、「本を読む」という行為が一気に大衆化したことが挙げられます。(略)インターネットと共に生きる現代の私たちには想像することが難しいほど、当時のヨーロッパでは「知識」を作り出し、それを受け取るということがごく一部の人間にしか可能ではなかったのです。ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
僕らはこの“「知識」を作り出し、それを受け取るということ”がとても容易になった世界に生きています。
ただ、知識の生成と共有が容易になった世界は、ふたたびグーテンベルグの印刷技術前の「知のギルド」としての大学のようなつながりを欲しているようにも思うのです。
元来大学にはキャンパスも建物もなかった。レンガやモルタルで作った建物は存在せず、ウニベルシタスという言葉そのものも、物理的な場所ではなく一群の人々を指す言葉だったのである。しかも、全方位的な知識としての普遍性、すなわちユニバーサリティーを表すわけでもなく、実はこの言葉は、宣誓した個人からなる団体を古代ローマ法の概念だった。イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』
このギルドとしての大学は、ほかの様々な職業におけるギルドと同じ中世の時代に生まれています。
彼らは十字軍に従軍して東方の知で新たな土地と機会を見出した。至るところで(商人や職人や知的職業人の同業者組合-ギルド-や、宗教団体などの)新たな社会的ネットワークが誕生し、旧来の領主と農民の関係に新たな人間関係が加わった。商業活動がふたたびさかんになり、村は町に変容し、町は都市に成長した。リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』
この中世の時代と同じような新たな社会的ネットワークが生まれることが、いま求められているように思うのです。それが企業と消費者のような関係に新たな人間関係のあり方を加え、新しい経済文化的な活性を生み出すのではないでしょうか?
オープン性をもった複数のギルド的なコミュニティにおいて、互いに自分がもっているものを出し合い、互いに影響しあう中で学ぶと同時に創造を行う。さらにそうしたコミュニティ間の連携で、さらなる創造が連鎖する。そういうプロセスの積み重ねのなかで生まれでてくるものが結果的にイノベーションになる。
そんな形を模索していきたいと思うのです。
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