自分で学ぶ未来へ。

まずは皆様、あけましておめでとうございます。
Felice Anno Nuovo 2007!!

今年も DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。

学習への期待

さて、今年の目標など書こうと思ったりもしましたが、どうも細かい目標設定などは覚えてられない性格で、どうせ1ヵ月後くらいには完全にリセットされていそうなのでやめました。

代わりに、というわけでもありませんが、ちょっと「学習」というもの、そして、それに対する僕の期待のようなものについて書いてみたいと思います。

年が明けて、僕はmixiの日記に、「明けましておめでとう」という日記を書くのに、その言葉を他のいろんな国の言葉で書いてみたいと思いました。最初はフランス語、イタリア語くらいを想定していたんですが、調べていくうちに面白くなって、スワヒリ語やグリーンランド語なども調べてしまいました。
昔なら、そんなことを調べるのにもすごく時間がかかったんでしょうけど、今ならググればあっという間です。簡単に12ヶ国語で「明けましておめでとう」を書けました

それだけ何かを調べたりということが、いまの環境においては簡単なわけです。そう、きわめて低コストで可能なわけです。

本を買ったり、そもそも、おもしろそうな本を探すのだって、ずいぶん、簡単になりましたよね。僕なんて、ブログを書くようになって、随分と本を読む数、それ以上に本を買う数が増えました。ほっといても、読みたい本が見つかってしまうからです。自分が意図的に拒みさえしなければ、読みたい本は次から次へとどんどん出てくる。

本だけじゃありません。行きたいところ、やりたいこともどんどん増えてくる。
それがこのWeb2.x時代の特徴なのかなと思っています。

恐れさえ学習の結果なのでは

昨年あたりも「教育」については、いろいろ言われている気がしますが、逆に「学習」についてはあまり語られていないなというのが僕の印象です。
これは単なる僕の個人的な印象なだけで語られているところでは、ちゃんと語られているのかもしれませんので、もし、そうであったなら、僕の不勉強ですのでごめんなさい。

ただ、「教育」について語られているものをみるとき、僕はどうしてもそこに「学習」という視点が抜け落ちているような印象を持ってしまいます。教えるということ、教える場というものの重要性はわかりますが、やっぱり一方で、主体的に学ぶこと、そして、何よりそのことを喚起させることのほうがより重要なのではないかと考えてしまうのです。

昨日、ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』という本を読んでいて、僕はふと「恐れる」ということさえ、学習の結果なのではないかと思いました。

ジャングルの中の動物が物音を耳にし、同時にそのあたりだけ日が翳ったとしよう。たとえこれら2つの入力の間に因果関係はなくても、この動物は逃げ出すかもしれない。過去の記憶、すなわち価値によって大きく左右されたこの動物の歴史において、このような入力の組み合わせに伴ってトラが現れたのだとしたら、この組み合わせだけで動物が逃げていくのには十分である。ちなみに、原意識という能力に恵まれていない動物でも、類似のニッチ(生態的地位)で生き延びていくことはできる。だが、刻々と変化する価値カテゴリー記憶をもとに物事を識別する動物と比べれば、当然ながら、生き延びる確率は同じというわけにはいかない。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』

上記の引用部に代表されるエーデルマンの意識というものの考察を読みながら、僕は、ヒトを含めて生物にとっての「恐れ」とは学習の成果なのではないだろうか?という考えが頭によぎりました。 ヒトはいまだ見たことのないものに恐れを感じるのだろうか?と思うのです。

なんとなく思うのは、自然の景色や都市の景観そのものに人が恐れを抱くことはないのではということです。
未知のものにはなんとなく恐れを抱きそうな印象がありますが、でも、考えてみれば、はじめて行った場所そのものにヒトが恐れを抱くことはないでしょう。そこで何が起きるのか不安になることはあっても、それはその場所の景観そのものにではなく、その背後に、自分が恐ろしいと感じる何かが潜んでいるかもしれないと思うから不安になるのでしょう。

火事や地震だったり、あるいは死体や凶暴な動物などには恐れを感じるでしょう。また、夜の暗闇に恐れを抱き、何か怖いものが見えてしまうような錯覚を引き起こすこともあるでしょう。この恐れを抱くものと恐れを抱かないものの区別って、きっと対象そのものに恐ろしさの要素が元から存在しているというよりは、その対象に対する恐れを個体レベルでも、種という集団レベルでも、学習してきたことの結果なのではないのかと思ったんです。

自分で学ぶ未来へ

ヒトや他の生物が恐れを学習するのは、自身の生存確率を向上するためのシミュレーション能力を高めるためだからと考えてよいでしょう。
エーデルマンが原意識と呼んでいる意識の機能「対象が識別された状態=意識シーンを構成する能力」は、まさにそれを可能にする基礎的能力です。

ヒトはさらに、その上に高度な意識を持っています。生存に直接に関わる未来の予測だけでなく、より広範囲なシミュレーションをその高度な意識と言語というツールで可能にしています。

意識に厚みを与えるフィードバックに、どのような利点、どんな機能あるいは生物学的な効果があるのだろうか。ずばり結論を言おう。私は、意識の主体にすっかり新しい「自己」観を与えてくれるのがフィードバックの利点だと思う。それがゾンビの状態から、主体をすくい上げてくれるのだ。
ニコラス・ハンフリー『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』

ハンフリーが書いているように意識という機能は、それを持つことでヒトに自己観を与えてくれます。意識がヒトをゾンビ状態から解放してくれ、自分が自分であること、どういう自分であるのかということの予測=シミュレーションを可能にしてくれます。

そう考えると、ヒトが行なう学習とは、文字通り自分の未来=未来の自分を作り上げていくことではないかと思うのです。それは社会的に自分がどう認められるかとかいうことの前に、自分自身がどう認めるのかという意味で。

僕が「学習」が大事だと思うのはその限りにおいてです。
そして、その限りにおいて、何を学習すればよいかも自ずと決まってくるような気がします。

誰も教えてくれないなんていう言葉は、学習においては無縁です。
最初に書いたとおり、いまは学ぼうと思えばいくらでもきっかけとなる情報は満ち溢れている。少なくとも、どこで学べばいいか、どうやれば学べるかの情報はすぐに見つけられます。教えてくれないのではなく、自分自身が聞かない=検索しないことだけが問題になるはずです。

2007年、こうした学習というものについて何か伝えていくことができればというのが、1つの目標ですね。
あっ、目標たてないっていったんだっけ?

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