2006年12月29日

主観、客観、そして、クオリア

先日、買ったニコラス・ハンフリーの『を見る―感覚の進化と意識の存在』という本がこれまた興味深い本でした。

いま3分の2くらい読み終わりましたが、タイトルにあるとおり、「を見る」という行為の中で生まれる、自分は「赤をしている(reding)」という感覚の観点から、意識の謎に迫ろうとしています。感覚の進化を追いながら。

一人称と三人称、主観と客観

この本では、S(主体、SubjectのSですね、きっと)という主人公がスクリーンに映った赤を見ることからはじまる単純でありながら、「感覚とは何か」「意識とは何か」という視点からみればとても複雑な物語を中心に、考察が進められます。

Sがスクリーンに映ったを見た際の感覚と知覚の関係って普通はこんな風に考えられていると思います。

  1. スクリーンに映ったがSの感覚器官に刺激を送る
  2. Sはこの感覚刺激をもとに低次元の複製としての感覚を作り出す(赤する、reding
  3. Sはその感覚の属性(それは視覚的感覚だ、など)を読み取る
  4. 最後に読み取った結果を元に、外界の事実としての「スクリーンの」を再構築する

ようするに、まずは先に感覚を受け、そのあとで知覚が可能になるという順番ですね。
この感覚と知覚は、主観と客観という風に言い換えることができるかもしれません。

感覚というのは、Sだけが独自にもつもので、Sという主体が存在しなければ同時に存在しえないもの。それゆえに主観的で一人称的であるものです。
一方でスクリーンに赤が映っているという知覚は、S以外の人でも同時にもつことができるものです。これはSがたとえ存在せず、またS以外の誰もいなくても存在しえる客観的事実です。これは三人称的だということができるでしょう。

感覚と知覚は別々に生じる

しかし、この感覚があって知覚が生まれるという流れに、著者のニコラス・ハンフリーは疑問を投げかけているんですね。

疑問の根拠となるのは、彼が最初に発見した盲視という症例です。
盲視状態にある患者は、実際には「見えている」のに「見えている感覚がない」そうです。目の前に赤いスクリーンがあるのを正確に推測できるにも関わらず、自分がそれを見ているという感覚がないために、それを事実として受け止められない。自分がを見て、そこにがあるという推測をしているとは信じられず、ただの当てずっぽうで、そう考えているのと区別できないそうです。

このことを視野にいれると、先の感覚と知覚の関係がおかしくなる。つまり、感覚がないのに生じている知覚を説明できないことになります。

それゆえに、ハンフリーは、感覚と知覚は外部刺激を受け、同時に、別々に生じているのではないかという仮説を立てています。

次のような図ですね。ここではSをサラリーマン風にしてみました。

reding

自由意志

同時に読んでる、郡司 ペギオ-幸夫さんの『生きていることの科学』に、内在物理学を提唱しているオットー・レスラーの、ロボットが「ご主人様の命ずるままに」と発話するなら、そのロボットは自由意志を持つという話が紹介されています。

常にロボットが主人の命令を背かないためには、その実行環境そのものをロボット自身が作りだす必要があります。例えばバッテリー切れなんかになってたら、主人の命ずることに背く結果になりかねませんから、バッテリー切れにならないようにしないといけない。結局、ロボットは主人が命じること以外にも、主人が命ずることを行なうための実行環境をつくるためにできる可能性をもつ必要がある。つまり、主人の命じることに背く可能性を持ちながら、ロボットは命令に従っている、命令に従うと発言しているという意味で、ここには自由意志があるというわけです。

客観的に、つまり三人称的に、ロボットや罪人の行為は苦役であり、受動的だよね。でも本人において、一人称として、能動性、自由が発見される。
郡司 ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

これをSの話に戻すと、Sはスクリーンのを受動的に知覚しているのと同時に、能動的に自分の内で赤する(reding)ことで感覚を作り出しているということが可能になります。

二人称としてのクオリア

でも、こういう風に見えいくと、なんだかいつの間にかデカルト主義的な二元論に陥っちゃいますよね。精神/物質みたいな。

対して、二人称ってどういう概念か。それは、齟齬のあるわたしと他者の間の、動的な交渉を通してはじめて出現するものだよね。だから、転倒が可能な世界像、もっと言うと、通訳不可能な一人称(主観)と三人称(客観)が対立軸を成す世界像において、原理的に二人称は排除されちゃう。
郡司 ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

郡司さんは「痛み」というのは二人称的だということを書いています。それは三人称としての他者にはわからない、一人称的な痛みであると同時に、主体である本人にとっても、それはある質感をもった外部的なものと感じられます。痛みの感覚をもつと同時に、それはなぜか外部化されるわけです。痛みは外部になどないのに。
ここでは測定のフレームワークそのものの変化があるわけです。最初は主観的に、かつ内包的に痛みを感覚的に感じるはずなのに、それがいつの間にか、痛みの質感を生み出すことで、外延を問うような形に変化しています。

何度かパースの三項関係を紹介してきました。これです。

パースの三項関係

この三項関係で、先の痛みの感覚、そして、そこから錯覚的に生じる痛みの知覚を描くとこんな風になるのではないかと思います。



さらにSがを見るという行為の感覚についても、同様に描いてみると、こんなことが起こっているのではないかと考えられます。



こんな風に考えると、きわめて主観的で一人称的な感覚のうちに、いつの間にか二人称としての他者が紛れ込んでいるのではないか。そう考えられるわけです。そして、ここに二元論の罠、あるいは、一人称と三人称の齟齬を調停する可能性が芽生えてくるのではないか、と。

ヒトの認知のダイナミックさ

ここで僕が面白いな、そして、勉強になるなと思っているのは、人間の認知の過程がかなりダイナミックであるという点です。

ダイナミックであるというのは、主体が客体を単純に見ているのではなくて、主体は主観的に客体からの刺激を受け取ると同時に、主体の中で主体と一体化した概念を生み出していて、それを客体同様に眺めることが可能だということです。そして、ここに客体と主体のうちの齟齬が生じる可能性があるわけで、これなどは先日の「ユーザー中心のデザインの7つの原則ほか、ユーザビリティに関する原則あれこれ」で紹介したユーザビリティの悪いデザインの1つ、概念モデルの不一致の問題にもつながると思うわけです。

まだ、『を見る―感覚の進化と意識の存在』に関しては、途中までしか読めていませんので、いまのところ考えられたのもここまで。しかし、この後の展開を予測すると、上のような三項関係が感覚、そして、意識の謎の背景にはあるんだろうと予感させます。

という感じで、結構、ドキドキしながら読んでいるのです。

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posted by HIROKI tanahashi at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳科学、認知科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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