欲望解剖/茂木健一郎、田中洋

1つまえのエントリー「マーケティングという問題意識」でまえがきを紹介しましたが、『欲望解剖』をあっという間に読み終わりました。2時間くらいでしょうか?

ちょうどいま考えていること、悩んでいることにフィットする内容だったからでしょうね。いわゆるマーケティングの本じゃない視点から、そして、僕がこれからのマーケティングってこうでしょと思っている視点から、マーケティングというものを語ってくれていたので、非常に面白かったです。

ちょっと内容を紹介しておきましょう。

脳科学の視点

この本は脳科学者である茂木健一郎さんと、法政大学大学院ビジネススクールの教授である田中洋さんの共著ということで、それぞれが別々に書き下ろした2つのパート+対談のパートという3つのパートで構成されています。

まずは茂木さんのパートである「脳科学の視点」からちょっとご紹介。

面白いなと思うと同時にとても納得させられたのが、茂木さんが脳科学とマーケティングを次のように描いているから。

モノやサービスをそれにふさわしい場所や人に届けるのがマーケティングの役割だとするなら、実はその過程というのは、もともとバラバラだったものが意味や欲望の空間の中で整理されていく、脳の中の記憶の整理、ないしは夢を見るときの感覚とまったく同じだということになります。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

茂木さんは一貫してこうした視点でマーケティングを見ています。

それゆえに後半で語られる、ブロードキャスト的に大量に投下される広告を中心に、ふさわしいモノとふさわしい人々をつなぐマーケティング1.0と、ネットワーク上で起こりえるセレンディピティを中心にしたマーケティング2.0的なモノと人々との出会いを語る際でも、いわゆるWeb2.0的に「人と人がつながりやすくなったから大丈夫」「これからは口コミマーケティングの時代だ」などと手放しで語ったりはせずに、

ネットワークを使ったマーケティングがもし開発されるとしても、一番難しい問題はネットワークの構造が、意味や欲望とは無関係だというところでしょう。ネットワークはまった価値中立的に存在しているし、それによってしか出会うことができないという、非常に悲しい事実があるわけです。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

といった形で、きちんと問題点を提起しています。

茂木さんはこれを男女の恋愛における出会いで説明しています。出会いの場面を思い出してください、それって趣味や嗜好が合うから出会ったというより、たまたま近くにいただとか、ある出会いのきっかけがあったというネットワークの構造のほうがはるかに大きなウェートを占めていませんか?と。
もちろん、近くにいたから出会うきっかけがあるだけではダメで、その後に趣味や嗜好があうかの検討は行なわれるのでしょうけど、すくなくとも構造がなければ、出会うこともないというわけです。

あと「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:14.記憶の構成、世界の広さ」で僕自身考えたような、記憶とブランドの関係に関しても、こんな風に書いています。

驚きを利用したり、奇をてらった広告は情動系に訴えて、記憶回路に「レジスター」されるこはできますが、そこまでなんです。そこから先のブランド価値の構築には、「エピソード記憶」から「意味記憶」への編集過程が関わってきます。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

この点に関しては書き始めると長くなること必至なので、上記引用を紹介することにとどめておくことにして、詳細は別途書くことにします。

マーケターの視点

田中さんのパートで一番興味をひかれたのここです。

むしろ人は欲望をどのように抑制するのかという点に、マーケターはより注目すべきかもしれません。(中略)マーケターは往々にして消費者はすべからくわが社の商品を買ってしかるべきだ、と考えがちです。しかし自分のことを考えてみてもわかるように、我々は普段、自分の欲望を抑えることで生活しているのです。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

田中さんはドゥルーズ=ガダリの「欲望する機械」などを持ち出しながら、人は不足によって欲望するのではなく、欲望する機械が欲望させるのだという観点に立って、上記のような指摘をしています。

これはおそらく人間それ自体が情報からできているからです。その意味ではドゥルーズたちの行った「根源としての欲望」という考え方がまざまざと実感できるでしょう。つまり我々人間は情報でできており、人間=情報は自らを拡大し、より豊富な存在になろうとする。人間という存在を超えるのが情報であり、情報こそが「欲望する機械」なのです。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

「人間それ自体が情報からできている」というのはまさしく「生命記号論」的だと感じます。そして、同時にここで言われる情報は、「私的インフォメーション・アーキテクチャ考」で繰り返し論じているように、テキスト情報、言葉による情報に限りません。
僕たちが欲望する機械なのだとしたら、それこそ情報には細胞がDNAから受け取る情報や脳のニューロンが受け取る電気的な情報も含まれますし、言語そのもののうちにある情報のネットワークもそれに含まれます。

現代消費されるもの、そして欲望されるものは、モノではなく情報であるという視点にたって論じられた田中さんのパートでは、「情報、モノ、人間が統合された」形でのポストカルテジアン消費という言葉が提示されていますが、これこそ、表象-対象-解釈項からなるパースの記号過程そのものですよね。

脳科学者 VS マーケター

対談のパートについては紹介するのを控えておきましょう。茂木さんの発言である、次の引用だけにとどめておくことで。

消費のスタイルがひとつの表現である、という視点もありえる気がするんです。政治における何年かに1回の投票より、毎日の消費のほうがある意味ではよほど有効な社会的投票かもしれません。
茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』

ずっと昔に「顧客が企業にアウトソーシングしていたものが返還されはじめている」でも似たようなことを書きましたけど、ここで茂木さんが指摘しているのは、消費者の側も積極的に参加してこそ、本来のマーケティングなのでしょうということではないかと思います。

「モノやサービスをそれにふさわしい場所や人に届けるのがマーケティングの役割」だとしたら、届けてもらう側も自分の問題としてマーケティングを捉えたほうがいいのではないかと感じるんです。
企業の側からブロードキャスト戦術で一方的に価値の押し付けをされるから、なんだかマーケティングってウザイものに思えるけど、本来、自分が欲しいものをきちんと自分の手元に届けてくれるものだと捉え、また自分の欲しいもの=自分自身の表現、ブランディングであると考えれば、いまのような受身なものとしてマーケティングを捉える必要はないのではないかと思います。
というか、このあたりの話はYouTubeとかiTunesとかでユーザー側が積極的に自分自身が欲しいものを編集してる事情を考えると、別にまだ見ぬ将来の話ということでもないと思ったり。

そして、そうした消費者側の積極的な関与こそが、マーケティング2.0に必要とされるセレンディピティを可能にするのではないか?
そんな風に考えたりしました。

さらっと読めた割にはここ最近ずっと考えていたことが整理できて、とても有意義な読書でした。

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