2012年11月14日

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくには…

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくにはどうすればよいのでしょうか?
物質的な資源を加工して価値を高めるこれまでの社会における知恵の使い方ではなく、知恵そのものを資源に価値あるものを創造することで経済面でも文化面でも豊かな社会をつくっていくためには自分はこれからどんな活動をしていけばよいだろうか?
最近はそんなことを考えています(そんなことを考えるのは、ここでそんな話をしたいと思っているからですが)。



そして、そんな社会にするために何より必要なことは、知識や情報というものをモノと同じように私有しようとすることをできる限りやめて、知識や情報は社会の共有資産としてオープンにシェアし、人びとが知恵を使って創造性を発揮する活動をどんどんしていけるようなそんな環境をつくることが大事だと思います。
そして、そんな活動自体もオープンにし、いろんな人々が知恵を出して、次々に新しい価値を創造していけるよう、そんなオープンイノベーションやコ・クリエーションを重視した環境がつくっていきたい。
そんな風に考えるのです。

知そのものがスタティックなものからダイナミックなものへ変化している

もう1つのブログ Think Social Blogの「オープン・イノベーションと知のダイナミクス」という記事でも書きましたが、現在、オープン・イノベーションの必要性が増した背景として、知そのものがスタティックなものからダイナミックなものへ変化していることも大きく影響していると僕は考えています。

知識はいま、従来のように書籍の形で個人所有されたり図書館で公的に保有される有形の財の形から、インターネットの誕生以降、まずは広大なネットワーク空間にアーカイブされ、検索という形で誰もがアクセス可能な形となり、さらにはいまではFacebookやTwitterなどのソーシャルメディア空間をおしゃべりのようにダイナミックに流れていく形に変化してきました。
そして、現在はフューチャーセンターのようなリアルな場における対話のなかで決して従来の知のように1つの形に固定されることなく、次々と生成しては変形していく非常にダイナミックな存在へと大きくその意味合いを変化させています。
まさにうまくいくブレインストーミングにおいてアイデアにアイデアが重なりながら、最初は想像さえしなかった面白いアイデアが生み出される場合は、知とは生成されるものだという感を強くします。

IMG_4626.jpg

そんな知の変遷をあらわした上のグラフィカルノートの下の部分です。
この知に関する変化が、いまの参加型経済モデルや、オープンイノベーションが求められる社会的環境とリンクしていると僕は考えています。

このダイナミックな知は、従来のスタティックの知のように個人や閉じた組織が私有するのには向いていません。というより、むしろ、このダイナミックな知は個人間や組織間の「間 ma」においてこそ生成されるものといっていいでしょう。消費社会においていったんは所有可能な形に商品化された知は、参加型経済モデルの社会において、ふたたび開かれた場において生成されるイベント的なものに変化していると言えるのかもしれません。

この流れに逆らうように、知の私有にこだわり続けてしまうと、組織などの枠組みを超えて、よりオープンに協働しながらトータルとしての創造性を高めていくというオープンイノベーションの戦略をとることはできません。
過渡期でなかなかむずかしいところではあるとは思いますが、知識そのものはシェアしながら、各自が自身の創造性を発揮して、新しい他とは違う価値を切磋琢磨しながら生み出していくというのが、いまの社会においては健全だと感じますし、何よりイノベーションのスピードを高めることが国家的にも大きな課題となっているわけですから戦略的も正しいように感じるのです。

線形的な社会では将来を予測し、非線形的な社会では未来を創造する

とはいえ、ほとんどの人がそれ以前に、自分たちが知識というものを商品などのように私有したり、消費したりということを意識していないのだろうし、その知識の私有や消費というあり方がすこしずつ変化していることにも自覚的ではないのでしょう。

マクルーハンはかつて「印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能な<商品>でもあった」と指摘していますが、知識の私有とポータビリティ、さらには商品化を実現したのものこそルネサンス期に登場した印刷本でした。
そして、知識や情報の印刷本を通じた私有化−商品化こそが、むしろ、そのほかのモノを大衆が私有化したり商品化したりしたことの先鞭をつけたことはほとんど知られていません。

印刷技術とともに、ヨーロッパは人間の長い歴史のなかで、消費を社会の原動力とする消費時代の最初の段階にさしかかったのだった。なぜなら、印刷はたんなる消費媒体であり商品であるにとどまらず、人間が自分のすべての経験、あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みを教示していたからだ。

ここで指摘されていることはとても重要だと思っていて、それは印刷本的な知のあり方が社会の成長を線形システム的に考えるようになったことと連動しているという点にあります。

逆にいまは社会の動き自体が従来の発想では、将来がまったく予測不可能なものに映り、非線形的なものになっているように感じられています。それはあてどもないおしゃべりにも似ていて、決して書籍のような筋のある流れではありません。
けれど、将来が予測不可能だと感じられてしまうのは、線形的なシステムのうえでの「予測」という頭の使い方に慣れすぎてしまっているからで、現在のような非線形的な社会においては頭の使い方も「創造」に変えていかなくてはならないことに気づかないといけません。そう、だから将来が予測不可能なのではなく、未来は創造するものという認識する必要があるのです。

そのとき、知識に関する認識もモノのように所有して消費するものという認識から、まわりと共有するなかで次々に生成するものという風に考える必要があるのだと思います。

知に関して私有などを考えないという点では、印刷本が生まれる以前の中世の知や創造のあり方の方がいまに近いのかもしれません。

不思議なことだが、著者であるとか、偽作の問題にひとびとが関心を持ちはじめるのは、消費者中心の文化なのである。写本文化は製作者中心の文化、つまりほとんど完全な手作り文化であるといってよかった。そして、扱っている事実がどこから由来したかということよりも、それ自体として目的にかなっているかどうか、役立つかどうかが問題にされた。

そう。誰がつくったか、どこから由来したかということより、知が目的にかなう形で役立てられるかが重視される社会。

そんな風に知が使われ、価値を創造する資源として使われるような社会になっていけばと思うのです。

と、雑多なことを書いてみましたが、今回はこのあたりで。



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posted by HIROKI tanahashi at 23:51| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする