私的インフォメーション・アーキテクチャ考:14.記憶の構成、世界の広さ

口にされることは目に見える氷山のほんの一角にすぎないといいます。また、同じように意識されるものは無意識下におかれたもののほんの一部に過ぎないのでしょう。
しかし、前回「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:13.言葉の前に・・・、言葉の後に・・・」で指摘したような言葉と模倣記憶の組み合わせでヒトは、目で見えたこともないようなシーンを、言葉や記憶をレゴブロックのように組み合わせて構成することができます。その意味でヒトにとっての可能世界は現実世界の何倍も広い。いや、何倍とかいうレベルではなく、無理数と有理数の差ほど、その違いは大きいのかもしれません。

可能世界と現実世界

たまにネットのメディアの記事や社内外含めた講演の依頼をいただくことがありますが、そのときに困る(というか、ちょっと面倒だと感じる)のは具体的な事例を織り交ぜてくださいと言われることです。
言うほうは簡単に言ってくれますが、具体的な事例を扱うのは簡単ではありません。1つには公言してよい事例というのが仕事柄限られているということがあります。しかし、それ以上に先の意味で実際に経験した事例の数というのは頭の中で構成できる話の数と比べれば、驚くほど貴重な存在なわけです。普段、どんなに文を書くのを苦にしてはいないといっても、希少な存在である実経験のうち、さらに公言してよい事例だけを対象に書け(話せ)といわれると、途端に途轍もない制約条件がのしかかってくるわけです。

具体的な事例が読み手にとってわかりやすく、メディアとしては集客などの関係からそうしたわかりやすいコンテンツを提供したいというのはわかります。しかし、現実世界は可能世界よりはるかに少なく、さらにその現実世界で人目を引くエピソード(極端な成功事例や失敗事例)はそれこそ恐ろしく貴重なわけです。そうなれば貴重なエピソードのパイの取り合いになるわけで、どこのメディアも同じ内容を扱うということになる。それはそれなりに瞬間的な注目は集めるのでしょうけど、決して、その注目は長くは続かない。それはそれでありだと思いますが、僕個人としては書き手としても読み手としてもあんまりその環の中に積極的に加わろうという強い思いは残念ながらあんまりなかったりします。

部分最適に陥るユーザビリティ

すこし話はずれますが、Webユーザビリティの記事などを読んでいても、似たようなことを感じますね。

とにかくボタンの位置だとか色だとか、記号の重複だとか、そうしたディテールのわかりやすい部分を指摘して、その問題をとりあげる傾向がある。そして、それが実践的であるような語り口があったりしますが、僕はそれには疑問をもつわけです。確かにディテールの変更によって、対象として議論されているページ(あるいは機能)の部分的な改善にはつながるでしょう。でも、それって決して全体最適にはつながらないわけですよ。

ユーザビリティって結局は現実世界の経験や文化にもとづいた、それぞれの人の頭のなかに構成された記憶に追うところが多く、そして、その記憶は単に部分的で、構成的なだけではなく、暗黙知的で全体的なところもあるわけですよ。それをディテールの問題のみで改善しても、全体的な認知上の問題(例えば、これは未発売の本を予約する機能で、たとえ購入したとしても当然ながら発売前には本は送られてこない)に対する配慮が行なわれなければ、ユーザビリティは改善されない(買ったのに1週間経っても届かない!でも、まだ発売には1週間ある)ということもあるわけです。当然、ユーザビリティを考える際のターゲット理解、ターゲットの利用シーンの理解が欠けているわけです。

ところが、ユーザビリティについて解説する記事にはこの手の部分的改善について、それが実践的であるかのような語りとなっていることがあります。本当は改善手法そのものが全体的でユーザーにとってわかりやすさを追求すべきなのに、記事自体のわかりやすさを追求するために部分を取扱い、その記事自体の全体性を保とうとするわけです。
さっきの「具体的な事例を」といっしょです。可能世界のパーツを提供して読み手の構成力に期待するよりも、最初からある程度答えが出てる全体的なパッケージを提供してとっつきやすさを狙うわけですね。僕なんかからすると読み手に対して失礼だよなと思います。読み手が構成力をもってないかのように扱っている感じがするので。

実際にユーザビリティを考える際には、考える側が自身の構成力、分析力を発揮して、ユーザーの全体的な行動観察から、使えるバラバラのパーツ群からユーザーのニーズを満たせるような全体像を再構成して設計するわけです。現実世界の観察から、分析+構成によって可能世界を設計するのがユーザビリティ設計者の仕事です。それを最初から現実世界に提示されるボタンの話やラベルの話などをそのまま使ったってユーザビリティに優れたものなどできるはずがないんですよ。だって、ボタンやラベルのどこにユーザーがいるっていうんですか? ユーザーを見ずに、ボタンやラベルなどのディテールの話をしたってしようがないわけです。

スクワイアの記憶分類

さて、話がずれたといいつつ、実はちゃんとつながっていたりします。
ユーザビリティの問題にしても、ネット上の読み物にしても、ヒトは何かを理解する際に、自身がもともと持っていた記憶を理解のためにフレームワークとして用います。その記憶は当然、自身の経験から構成されるのですが、ただ、一言に記憶といっても実は単純ではないというのが、今日のエントリーのテーマです。

記憶の分類の方法としては、ラリー・スクワイアの記憶分類が有名です。スクワイアの記憶分類では、記憶は30秒から数分の短い期間しか保たれない短期記憶と、基本的には忘却しない限り、死ぬまで保持される長期記憶の2つに分類されます。また、意識的な記憶ではないものとして感覚記憶という3つ目の分類要素もあります。

長期記憶にはさらに次のような分類がされています。
  • 手続き記憶:飛んでいる獲物を空中で捕らえるなど、学習した一連の行動に関する記憶。人間でも言葉でうまく説明できない暗黙知的な技能はこの手続き記憶に相当する。すべての動物はある程度の手続き記憶を持っていると思われる。
  • エピソード記憶:自分の経験や出来事などに関連した一連のエピソードの記憶。全体のエピソードから個別の部分を抽出することはできない記憶。エピソード記憶は鳥と哺乳類に特有であるように見える。
  • 意味記憶(模倣記憶):意味記憶は人間だけが有する記憶システムで、エピソード記憶が自分が実際に経験した一連のエピソードを全体的に扱うことしかできないのに対して、意味記憶では部分を抽出することで、実際には経験していない想像上のシーンも構成することを可能にする。

「プライミング記憶」と呼ばれる、いわゆるサブリミナル効果や勘違いなども長期記憶として分類されます。

先の「具体的な事例を」なんていう要求には、僕は読み手を「意味記憶をもたない」サルとして扱っているような感じがしてイヤなんですよね。パッとわかる具体的な事例の提示でなくとも、意味記憶による再構成という能力をもっているヒトが相手なら、普通、自分で書かれた内容を自分の経験に基づき、再構成するよう頭を使うだろう、と。
(えっ、使わない? あっ、じゃあ、いいです)

外部記憶とWeb2.0

ところで、ブログをはじめ、コンピュータが介在することで、ヒトはこれまでにも増して記憶を外在化することが可能になっています。
さっきのネットの記事の話もそうですよね。あれは記憶をネット上に外在化させてあるわけです。だからこそ、その記事はエピソード記憶なのか? 意味記憶なのか? ということを考えたりして、本当の意味で利用範囲の広さを考えたら、瞬間的なわかりやすさを狙うエピソード記憶的な記事よりも、あとで再構成して再利用可能な意味記憶的な記事のほうがいいんじゃないのと思うわけです。

でも、再構成、再利用可能という意味では、もっと直感的な要素を省いたデータとしての記憶のほうが実はよい場面もあるわけです。これまでどちらかというと長期記憶を扱ってきましたが、もはや意識で直感的には扱えないような感覚記憶としての情報の集積ですね。

例えば、最近、「Web担当者Forum」に掲載されたインタビューでもティム・オライリーがこんなことを言ってましたよね。

しかし今後は、ユーザーがウェブ入力したデータのみならず、他の形で蓄積されたデータがもっと活用されるようになっていくのではないかと思う。例えば、車載端末や携帯端末、自動改札機など、人々が日々持ち歩いたり利用している機器や端末には、日々様々なデータが蓄積される。そうしたデータについても、連携効果を高めることで得られる集合知は大きい。例えば、車載端末から集められた情報を活用する渋滞情報サービスなどだ。

車載端末から渋滞情報やリアルタイムな天気情報などが得られることについては、僕も以前に書きましたが(参考:センサーとしてのクルマ)、結局、Web2.0のすごさって情報自体が蓄積、記憶されて、あとで再構成可能になることであって、それが直感的かどうかって、記事に具体的な事例が載ってるかとか、ユーザビリティの記事がボタンをどうすればいいかという考えなくても答えっぽいものが見つかるかどうかということと同じくらいどうでもいいことかもしれません。

膨大なデータを目の前にして、それを自分が理解できるレベルに直感的なものに組み替えることそのものは、Web2.0とか関係なく、昔も今もヒトそれぞれが自分でやればいい話だし、自分でできなければそれこそネットに聞くのではなく、近くの誰かに頼ればいい話です。Web2.0に人工知能的なことを求めるからおかしくなる。それはあくまでデータの貯蔵庫、そして、貯蔵されたデータを誰でも簡単に自分の頭につなげられる仕組みだと捉えたほうがいいのではないかと思います。

それこそ現実世界はおそろしく狭く、そこでのエピソードや情報はおそろしく希少なわけですから、再構成可能なパーツとしてのデータが蓄積された貯蔵庫があって、それをいつでも利用して、それぞれの利用者が自身の可能世界を広げられるようにできること自体がよいのであって、Web2.0と呼ばれるものは「みんなの意見は案外正しい」的な答えを直接的に見出すためのものではないのではと思います。

どうも最近、このIA論が僕以外のヒトにはきちんとIA論として捉えられていないような気がしたので、今回はすこしIA論っぽくしてみましたが、いかがでしょうか?

さて、次回は意識とインターフェイスの微妙な関係について。


 

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