生命記号論―宇宙の意味と表象/ジェスパー・ホフマイヤー

チャールズ・パースの記号論を下敷きとして参照しつつ、生命の世界を、生物だけでなく組織や細胞までもがメッセージを交換しあう記号圏として捉えつつ、生命の発生、意識の発生そのものを記号=意味の生成過程と重ね合わせて論じる、ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』は、ひさびさに僕のツボにピッタリとはまってくれる本でした。

何の意味もないところにどうして意味のあるものが生まれるのか?

この本はビッグバン時点の宇宙の話からはじまります。何もない虚空に宇宙が生まれたビッグバンの話からはじまります。
ビッグバンの時点であったゆらぎ、初期の不均一さがその後、恒星や惑星となったという説明は有名です。しかし、なぜ最初にゆらぎがあったのか、何もない虚空から星や僕たちのような生命が生まれることになったのか?

そして、この「何の意味もないところからどのようにして意味のあるものが生まれてくるのか」というテーマがこの本の中心をなします。

「~ない」という境界

しかし、何もないということを想像することは実は決して簡単なことではありません。私たちは普段、存在するものを認識する際、ごく自然とその認識する対象を他のものと区別しています。下のゲシュタルト図のように。



この区別するということ、これはあれではない、これはそれでもないと境界線で分けて対象を認識する際には実は非常に不思議なことが起こっているのです。

「~ない」は境界なのだ。この境界すなわち円周は、独特の位置にある。なぜならそれはそれを心に描いたもの、観察者の心の中以外には存在しないからである。この境界、ベイトソンの用語で言えば差異は穴にも背景にも属さない。要するにそれは精神的な働きの中にあるのだ。これが意味の大本を形成する。別の言い方をすれば、その境界は「誰か」がその穴を認識しないかぎり、この世の中には存在しないのだ。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』

ヒトは対象を認識する際、それ以外のものと対象を区分するために境界線をひく。しかし、この境界線は実際に存在するのではなく、あくまで境界を認識したヒトの心の中にしか存在しないのです。

表象と対象、そして、観察者

パースの記号論においては表象-対象-解釈項の三項関係による意味の生成する記号過程が中心的テーマとなっていることは、このブログでは何度か紹介してきました。先のあるものと別のものを区分する境界線という解釈も「誰か」がいてはじめて成り立つように、この本で扱われる生命記号論においても同様の三項関係を中心に、記号圏のダイナミックさが論じられています。

例えば、DNA。
DNAは通常レシピに喩えられます。それは建築物の青写真のようなものではなく、ましてやその小さな構造の中にホムンクルスのような小さな人間が入っているオカルト的な存在ではなく、純粋にデジタルな性質をもった記号として書かれたレシピです。

料理の本だけがあってもそれからローストチキンができないように、ゲノムだけから実際のニワトリを作り上げることはできない。文章それ自体は何もしない。解読されて初めて作用を及ぼすことになる。それはDNA情報でも同じである。ゲノムの暗号を解読する、あるいは解釈するのは受精卵細胞である。卵は少しずつゲノムを解読し、何十億という細胞系列に分裂し、生体になっていく。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』


つまり、ここではこんな三項関係が想定されているのです。



DNAという表象が、卵細胞によって解釈されることで、対象としての個体発生へとつながる。このDNA-細胞レベルでの記号過程から、僕たちのような個体レベルでの記号過程まで、この本では包括的に扱うことで、生命の発生と意味の発生の関係について考察しているのです。

情報社会の本質

そして、先日も引用したように、ヒトはより自分たちの自由に使える記号=言語をしたことで、自身の内部の意識=解釈と、外部の身体という対象に分裂してしまいました。

意味はそこにあるもの自体によって生じるのではなく、外面的には既にあるものの間に発生する分裂、内面的には他の何かと関係によって生じるのである。私たちのもとの一体に戻ろうとする本能的な欲求は、この自分自身と自分の像の分裂から生じる。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論―宇宙の意味と表象』

僕は情報社会の本質を探るには、やはりこのあたりを問題にしていかなくてはならないのではと感じています。

内面にある意味と外部にある像、そして、それを結びつける情報。なぜ情報がこれほどまでの欲せられ、かつ、共有することが望まれるのか? そして、同じ情報を使いつつもそれぞれがそこから感じるクオリアによって導かれる答えは異なる可能性を含んでいる。つまり、同じレシピをみても決して同じ料理にはならない。
さらにいえば、そのバラツキは人間がコンピュータのような正確さを持たないがゆえに生じるものではなく、そもそも解釈というもの自体が非計算的なプロセスであるからではないか? だとすれば、計算プロセスのみで組み立てられたコンピュータでは、たとえ、それをニューラルネットワークのような並列処理を行なう形に変えたとしても、茂木健一郎さんがいうようなクオリアは扱えないことになる。それでも、コンピュータ社会を情報社会とイコールとして捉えてよいのか? いや、どう考えてもダメでしょう。

クオリアの理論

実はWeb2.0について考えているとき、これだけ人々の情報をうまくむすびつけられる技術が進歩してくれば、マーケティングはいらなくなるのではないかと考えたことがありました。

でも、それは間違えていたなと最近では感じています。
いまの計算主体の技術だけでは、どうしても解釈というものを捉えきれないと思うからです。

それを可能にするには、まだヒトがどう情報を理解するか、意味を生成しているかということについての理解が欠けているのだと思います。そして、それを理解するためには、この本やペンローズの本で扱われているような非計算的なクオリアの理論が必要なのでしょう。

と、まあ、なかなかいろんな好奇心を駆り立ててくれる本でした。

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