私的インフォメーション・アーキテクチャ考:12.意味の生成

遺伝子のもつ利己的な性質について最初に述べたのは、リチャード・ドーキンスでした。しかし、遺伝子が利己的であっても、そうした遺伝子が利己的であるとは限りません。実際、僕たち人間は、決して少なくない頻度で利他的なふるまいをみせることがあります。そして、それはヒトだけでなく、他の動物にも見られる傾向だといわれています。しかし、利己的な遺伝子をもつ生物が利他的な行動を進化させたのはどういうわけでしょう?

利己的な遺伝子が利他的な行動の意味を発見するには

利他的行動の進化を説明する利己的な遺伝子の物語として次のようなものがあります。

天敵の出現を声を出して仲間に伝える見張りのサルは、声を発することで死ぬ確率が高くなります。進化論的にみれば天敵を前に声を発する性質をもった遺伝子が自然淘汰を勝ち抜く確率は一見すると低いと思われます。
しかし、この場合、声を発することで(そして、自身が犠牲になることで)仲間の多くは助かる確率が高まる。そして、その仲間のうちには自分の血を分けた(つまり同じ遺伝子を分けた)子孫も含まれていたりします。怯えて声を出す遺伝子をもった種はこうして集団レベルでは生存の確率が高まります。一方で誰一人、声を出さない集団であれば、最悪の場合、全滅に追い込まれる可能性もあったりします。
結局、怯えて声を出す利己的な遺伝子をもつ集団が優勢になることで利他性が高まるというわけです。

さて、この説明は非常にもっともなことのように思えます。
しかし、次のような視点を導入するとこの一見もっともだと簡単に納得しそうになる説明が一転して、ある種のあやうさをもっていることが明らかになります。

単に声を発する行動に、ある行動、ある社会構造を有した血縁集団の生存を促すという意味が存在していた。その潜在していた意味が発現されるところに、利他性の起源の意味がある。だから、潜在していたものがいかにして発見され、集団レベルの意味として翻訳されるか、であるとか、個体レベルと集団レベルの結びつきが潜在しているとはどういう様相なのかとか、そういったことが本来、起源問題の主眼なんだと思う。
郡司 ペギオ-幸夫『生きていることの科学』

この引用では、できあがった利他的な行動のシステム自体は否定されていません。疑問を投げかけられているのは、そのシステムの起源を説明する物語に対してです。システムの説明としては正しくても、それは起源を説明することにはならない。システムの説明に含まれる意味の起源を問わなくては問題を解いたことにはならないというわけです。

意味の発見、意味の生成

ここには意味の生成という問題が含まれています。意味とは言い換えれば価値です。

ソシュールは「価値とは差異である」という立場から構造的な視点での記号論(semantics)を打ち立てました。一方、記号論のもう1つの立場の創始者であるパースは、ソシュールのような構造主義的な立場からではなく、記号過程という表象-対象-解釈項の三項関係のなかのダイナミックなプロセスそのものに意味を、そして、その生成を見ました(semiotics)。

前回の「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:11.テンプレート脳」では、テンプレートについて考えましたが、このテンプレートが有益なのはそれが何かしらの価値を有している限りにおいてです。ここでも価値とはつまり意味のことです。これはソシュール的な意味において、他のテンプレート(あるいはまだテンプレートとして固定されていない一回限りのパターン)との差異において、価値=意味をもっているといえるでしょう。

しかし、テンプレートとはただ単にすでにあるものを使うだけでなく、その起源においては誰かしらに発見される必要があります。この場合、発見されるとは誰かしらによって意味を見出されることに他なりません。あるパターンがテンプレートとなるためには、そこに何らかの利用価値が見出される必要があるといってよいでしょう。

パターンから有益なものを抽出する人たち

ある膨大なデータがみせるパターンから何らかの意味を読み解くことは多くの科学者が行なっていることそのものだといってよいでしょう。科学における理論(theory)とはまさにテンプレートの発見です。アインシュタインのあの有名なE=mc^2もテンプレートの1つです。

セオリーといえば、ジェイ・B・バーニーは『企業戦略論』の中で、戦略を「いかに競争に成功するか、ということに関して一企業が持つ理論」と定義しています。

まず、戦略を「企業が考えた競争に成功するためのセオリー」として定義すると、成功のためのセオリーを選択し実行することが常に不完全な情報と知識に基づいていることが強調される。
ジェイ・B・バーニー『企業戦略論【上】基本編 競争優位の構築と持続』

企業におけるセオリーとしての戦略は、科学の分野におけるセオリーと比較すると、とても心もとないものと感じられます。実際、それをセオリーと呼んでいいものか不安になるようなものを戦略と称している企業も多いでしょう。

つまり、ある企業が特定の業界や市場で事業を開始しようという時、自社がどのように競争するかという意思決定は、その業界や市場の重要な経済プロセスに関する「その企業の」理解や、それを前提とした競争手段の有効性に関する「その企業の」精一杯の推量に基づいている、ということである。
ジェイ・B・バーニー『企業戦略論【上】基本編 競争優位の構築と持続』

しかし、あるパターンの中から有益なものを見出し、それをセオリーとして確立するという意味では、企業のセオリーも科学のセオリーも実はそれほど大きく変わりはないと僕は思っています。
科学が既存の(自然の)膨大なデータを集めてその中から有意なパターンを導こうとするのに対して、企業は自らの活動によってデータを蓄積し、その中から有意なパターンを見出し、それを戦略の中に取り込んでいくという違いがあるだけです。

目の前のパターンから有意な意味を見出すことで成功を自らの手中に入れるという意味では、科学者のやっていることも企業経営者のやっている(やるべき)こともそう違いはないはずです(参考:「マーケターの失敗につながる3つの能力欠如」)。

IAと意味の生成

インフォメーション・アーキテクチャーを設計する際にも、こうした「意味の生成」に関してはもっと考慮する必要があるのではないかと思います。

テキストで表現された内容だけを対象にするのであれば、ソシュール的な意味において、「意味の生成」を無視することは可能だと思います。文章そのもののもつ意味に関しては、IAの問題というよりもライティングそのものの問題とも考えられますので。

しかし、情報というものをより広い範囲に拡張して捉えるのであれば、「意味の生成」を視野に入れる必要があるのではないかと思うのです。

どういうことかといえば、例として僕が専門の1つにしているWebブランディングなども「意味の生成」を考慮すべきものだといえます。

ブランドとはその企業あるいは製品、サービス、人などに対する評価が結晶化したものだといえます。「結晶化する」というからにはそこには秩序だった法則性が存在しなくては結晶とはなりえません。ようすうに人がその企業や製品に接した様々な経験のうちに、有益なパターンを見出せたかどうかによって、その企業、製品がブランドとなりうるかが決まるわけです。

そのような意味で、ブランディングを目的としたWebの設計、および、コミュニケーションのデザインには必然的に、ブランドに接するユーザーが何かしらの有益なパターンが見出せるような配慮を、空間的な意味でも、時間的な意味でも考慮していかなくてはいけません。
もちろん、このブログでは何度も書いているようにWebだけではブランディングはできないわけですが、Webがブランドにとって主要な顧客接点となっていることも事実だったりします。その際、Web以外でのブランド経験とWebでのブランド経験が有益なパターンを生じさせないようなものであれば、ブランドの価値=意味は発見されないまま終わります。

経験という情報

経験とはまぎれもなく情報です。
IAとは単にinformationの側だけ考えればよいのではありません。informationそのものがヒトが解釈する=意味を見出すという限りにおいて情報なのですから、そもそもHII(Human Information Interface)を視野に入れる必要があるはずです。

さらに情報とは単にテキストだけを指すのではなく、写真やイラスト、そして、それらのレイアウトや色、そして、それらがヒトと接触することで生まれる経験、意志なども情報です。semanticsというものに対して、僕はその意味で疑問をもっています。意味とは決して言葉のように定着した様態をもつとは限らないからです。ソシュールを起源とするsemanticsには、意味の生成、そして、生成を可能にする解釈者の視点が抜け落ちていると思っています。その意味では記号過程という語で、固定化された意味よりも、生成する意味を主に研究の中心に据えたパースのsemioticsに僕は惹かれます。

そして、IAとはそこまで視野に入れたデザイン思想を組み立てる必要があるのではないかと思っています。

さて、次回はこの意味生成の原動力について考えてみようと思います。


  

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