しかし、「言葉で表現する」こと即「言葉で考える」ことを意味しているのだろうか?
「考える」をどう定義するかによるのだとも思いますが、僕も基本的にはDanさんの「人って本当に言葉で考えているの?」という感覚に同意します。
言葉は表現のツール
ただし、Danさんがご自身の考えを<多次元の「もやもや」>と表現するよりのに対して、僕自身の考えるスタイルは非常に言葉に依っていると感じています。しかし、非常に言葉に依るところが多い自身の考えるスタイルを考慮した上でなお「人って本当は言葉だけで考えているわけではない」と思うんです。言葉って表現のツールなんじゃないでしょうか。もちろん考える際にはその表現されたものを他の物理的対象やそれを感覚器官で感じ取った表象同様に素材としながら、何かしら「考える」という行為をしているんだと思います。でも、やはり考える際に用いるそれは、考える過程においても、そして、考えの結果においても表現のツールではないかと思いますし、それは「考える」という行為の一部であって、すべてではないという気がしています。
本当に彼(女)は「お前、何にも考えてないな」なのか?
例えば、「お前、何にも考えてないな」と言ったりします。多くの場合、その人が何のアウトプットも出してこなかったり、あるいは自分や他の人がだすアウトプットや環境におけるルールなどに対して、その人がほとんど影響を受けていないように見える場合に発せられる言葉です。しかし、「お前、何にも考えてないな」と言う場合に、その人が本当に何も考えていないかという実はそうではなく、こちらが意図したように考えていないというだけのことである場合が多いでしょう。意図したように考えていないということをもうすこし掘り下げると、その相手はこちらが意図したものにそもそも気づいていないことが多いんではないでしょうか。つまり、相手はそれ自体を頭のなかで表象できていないんではないかと。
もちろん、相手の感覚器官は開いて、外部の情報を感じ取っているはずですし、「お前、何にも考えてないな」と言ったりする側も、相手が感覚器官で感じ取っているはずだという前提に立って「何も考えていない」と言ってるんだと思います。この場合、やっぱり考えてないというより気づいていない。じゃあ、相手が本当に何も考えていないかというと、たぶん、他のことを考えてるんでしょうね。きっと「お前、何にも考えてないな」と言った側にしてみれば、どうでもいいと思うようなことを。
そして、気づいていないからといって考えていないと判断していいかといえば、気づかないのはおそらく感覚器官が捉えたパターンがその相手にとっては取るに足らないとする判断が意識下において行なわれたのであろうから、それを「考えている」とするか「考えていない」とするかは微妙なところだと思ったりもします。
「考える」という行為は脳の総体的な運動を指すのかも
考えるということがどういうことなのかの定義が曖昧なわけで、感覚器官での認識、意識での認識(気づき)、そして、そうした受動的な意識とは別の自由意志とも呼べる能動的意識、はたまた、理解とか、そういうもののどれが「考える」にあたり、そして、どれが言葉を使って行なっていることなのか?と。僕はここで「考える」ということをいかようにも定義するつもりはないんですけど、なんとなく「考える」ということは、能動的、受動的な場合の双方の頭の中での表現、そして、「理解する」という無理解から理解へと移行する過程での頭の中で起こる何がしかの変化などを含めた総体的な脳の運動なのかなと思っています。
言葉がなくても「敵が来たら逃げる」際の判断は可能
そこで思うのは、だからこそ、言葉じゃなくてもいいんじゃないのかなということ。この場合、言葉は狭義の意味で文字通り言葉として扱っていて、それは日本語のような話し言葉や書き言葉、それからDanさんも例に挙げているような電脳言語、そして、数学的記号による文も含めたものです。でも、はじめに書いたように考える際に使うこれらの表現ツールのほかにも、脳が「考える」という運動を行なってる際には、たぶん、もうすこし広い意味での記号全般=表象されたものすべてを利用しているように思うんです。
でないと、言葉を持たなかった時代のヒトはいったいどうやって考えていたのかという話になりますし、じゃあ、言葉を持たなかった時代の人間が考えられなかったかというとそうではない気がします。考えるという行為が、分析機能(「分ける」=「分かる」)という思考法がヒトにもたらされたのは言葉の誕生以降だとはいっても、より全体的な思考自体は言葉以前にもあったと考えるほうが自然でしょう。
例えば、敵が来たら食べられちゃわないように逃げる場合に「敵が来たら逃げる」という行為を分割不可能な全体的な認識として考えることはできたと。じゃないと、僕らの祖先はみんな食べられちゃって絶滅してるとしか思えませんから。
ここでいう「敵が来たら逃げる」が分割不可能という意味は「アブラカダブラ」のような言葉が分割不可能というのと同じ意味です。もちろん、言葉以前にといってるわけですから「アブラカダブラ」もないわけですけど。
考えることのより根本的なレイヤー
ホモ・サピエンスへの進化により、分割可能な言語による分析的思考を手に入れたからといって、ヒトがそれ以前の全体的な思考法の機能部位を丸ごと失ったとは考えにくい。その意味で、こういう進化心理学的な発想をすると、やっぱりヒトは「言葉で考える」だけではないのだろうと思うんです。「言葉で考える」ことができる以前に、もっと広い意味での表象=パターンによって考えることができる能力が下層に組みあがっていないと「言葉で考える」こともきっとできないのだろうと。そんな風に思うわけです。
このあたりいわゆるIT(情報技術)だとか、情報社会ということを考える際にも、考慮しとくとよいのだろうなというのは、まぁ、いつも書いてる(例えば、最近書いているブランド論もそう)ことなんですけど、このあたりはまた追々。
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この記事へのコメント
noriyo
そうですね。
おそらく、「考える」ということの中心にあるのは、そのようなパターン思考をベースにした「シミュレーション能力」だろうという気がします。頭の中で、さまざまな仮説検証を高速に繰り返すようなイメージですね。
だから、そのツールは言語ではなくたとえば映像だったり感覚だったりすることもあるでしょう。
あと、自分の場合などは時には母語ではない英語でものを考えることもあります。私はネイティブスピーカーではないので、わざとそうするのですが、その理由は考える内容によっては英語を使う方が明らかに効率がよいと感じられるからです。
なので、言語はやはり1つのツールに過ぎないのかなーと、そんな気がします。
ただし、言語によって思考が限定されるというのも事実だと思いますので、その影響は無視できませんね。
tanahashi
予測力ですね。
生物は生きるために予測をしなくてはいけない。予測力が高いほど、生きるための自由度は高まる。コントロール不可能な自然から自由になる力を得るための能力なんでしょうね。シミュレーション能力って。
>言語によって思考が限定される
デジタル記号とアナログ記号という区分を用いると、よいのかなと思います。言語はシミュレーション能力を高め自然に対する自由度を手に入れるためのツールであると同時に、まさに言葉の檻の中に人を閉じ込めるものでもありますね。言葉に限らずデジタル記号というものにはそういう性格があるのではないかと。一方、アナログ記号(映像や音、触覚など)は文字通りアナロジーであるわけで、実は記号と対象の1対1関係がない。その意味で自由度はデジタル記号に比べて高い。さらにこのアナログ記号には自分自身も含まれる。そこに言葉を中心に思考から解放されるためのヒントがあるのかなと。
という感じで思いつきで返信。