記憶や観察力と考える力

普段はあまりテレビは見ないのですが、先日風邪をひいて熱をだした際に、ぼんやりとした頭で見ていたテレビ番組でやっていた「絵が描けない人」の特徴の話がとても興味深かったので、今日はその話題から「記憶や観察力と考える力」という話を展開していくことにします。



布団にはいって半分目をつむったような状態で見ていたので、番組がなんだったかも含めて詳しく覚えていないのですが、いま話題にしたいのはこんな2つの事柄です。

  1. 絵が下手で、描いた絵を人から笑われることが多い人は、そもそも絵がうまく描ける人に比べて、物事の観察力が弱く、物事に対してあいまいな記憶しかもっていないために、描こうとする対象を頭の中でさえ非常にあいまいにしか思い描けないため、当然ながら実際の絵としても表現できない
  2. 絵が下手な人の中には、目の前にある風景を描き写すといった場合でも、目の前に存在するはずのない子供が描くような記号化された雲や太陽を描いてしまったりする

絵が描けない人って、そんな風に世界を見ているの?という意味で、僕にはとてもショッキングな話でした。

大ざっぱな観察力とあいまいな記憶

2つの事柄をもうすこし具体的に説明しておくと、こんな話です。

まず1つめの「物事の観察力が弱く、物事に対してあいまいな記憶しかもっていない」という話は、絵が描けない何人かの人に記憶をたどりながらパンダの絵を描いてもらうという実験の映像が流れたんですけど、これがまったくパンダに見えない絵が見事に並びました。
どこがパンダに見えないかというと、白と黒の塗り分けがまったくパンダじゃないわけです。

普通はパンダといえば、下手でもせめてこういう絵を思い浮かべると思うじゃないですか。



でも、下手な人は、このレベルでさえないんです。
全身を乳牛みたいにまだらに黒い模様が入ったパンダを描いたり、三毛猫のような模様で白黒に塗り分けたりするんです。どうみてもパンダには見えません。

つまり、パンダといえば、耳や目のまわり、手足が黒いというイメージを記憶として持っていないということだそうです。そもそもパンダを見る際に、そのくらい大ざっぱにしか観察できていないということでもあるのだと思います。

他人が与えた記号でしか世界が見られない

もう1つの「記号化された雲や太陽を描いてしまったりする」というのも驚きでした。

これも何人かにスカイツリーが見える風景をスケッチしてもらう実験をしていたんですが、絵が下手な人は実際に目の前の風景を見ていたら、そこに存在するはずもない、こんな太陽や雲を描き込んでしまうのです。



描いていたのは大人なんですが、子供の絵に出てくるような見事に記号化された太陽や雲の図です。
スケッチのために見ていた風景には、太陽が肉眼で見えないのはもちろん、曇り空で全体的にどんよりしていたので輪郭がはっきりした雲もなかったにもかかわらずです。
とうぜん、こんな雲や太陽が描かれるくらいなので、全体的にも小学校低学年の子供が描くレベルの絵でした。

でも、問題は絵が下手だということではなく、見えもしない太陽や雲が描かれるということです。
つまり、それは自分の目で見たものを描くことができず、他人が与えてくれた記号でしか世界を見ることができないということなのですから。

考えるための素材としての記憶

この2つの例に僕が驚いたのは、どちらも「絵が下手」という話では済まない事柄だと思うからです。

記憶が曖昧だとか、記号化されたもので目の前の現実を置き換えてしまうとかいった話は、単に絵が描けるかどうかだけに関わらず、もっと広い意味での思考や表現全般に関わる話であるはずです。
なぜなら記憶された心の中の情報が素材として用意されていなければ、人は何の素材もなしに思考を組み立てなければならないということになるからです。

メアリー・カラザースは『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』のなかで、スコラ哲学の大家であるトマス・アクイナスが口述筆記で一度に3つの本の内容を筆記させたという驚くべき話を紹介しています。筆記者が、アクイナスがまるで本を読むかのように書くべき内容を声にして出したことを驚いたという話なのですが、これを理解するには当時の書物というものの位置づけを知っておく必要があります。
印刷以前の中世からルネサンス初期にかけては、本は声に出して読まれるものでした。そして、同時に、書物というものは物質のように蓄えられている空間というよりも、声や発話を呼び覚ますきっかけとして認識されていたのです。だからこそ、書かれた書物というきっかけもなしに、アクイナスが自分のこれから書かれるべき本の内容を口にしたことに書記は驚いたのですが、これはアクイナスの記憶力が常人を逸するほど優れていたからです。

つまり、この例をあらためて先ほどまでの話と比較してみれば、記憶というものは、本で書かれた内容が知識を表現しているのと同様に、それを組み立てることで思考を表現できるものだということです。
人は文字で書かれなくても、言葉として声に出してみなくても、頭の中でことばやイメージを記憶を素材として組み立てるだけで思考を組み立てることができます。

観察力や記憶をどうにかしないと

ところが、そもそも記憶を形作るための観察眼が大雑把で常に曖昧な記憶しかつくれなかったり、目の前で起こっていることを自分の目で正しく捉えることができず、誰かが記号化してくれた状態でしか捉えられないのだとしたら、どうでしょう?

自分の頭で物事の変化を捉えたり、その変化への対応方法を考えたりといったことがまるでできない可能性があります。
だって、その変化を観察する力もないし、きっとすでにある記号であてはめるだけであれば新しい変化は見えないはずですから。特にまだ誰も記号化してくれていない新しい現象にはまったく気づく可能性がないでしょう。
事実が変形されて記憶されたりなんてことも生じるでしょう、牛柄のパンダのように。

また、絵を描くように起こっていることの全体像を、頭のなかでも、紙やディスプレイの上でも、絵でも文章でも表現できないのだとしたら、物事を論理的に構造化しながら、俯瞰的に捉えて思考するということができないということにもなります。

これって結構、基本的な問題では?と感じたわけです。
その一方で、実はそういうあいまいな観察や記憶しかもたない人や記号化されたものしか見えなくなっている人が結構な数いるのでは?と感じたりもしました。

むむっ、そうだとしたら、デザイン思考なんて成り立ちません。
いやいや、思考そのものが成り立たない。

あらためて記憶や観察力を根本的に鍛え直すエクササイズやそれを行なう場の必要性を感じた次第です。

P.S.
ということを考えはじめる前から募集を開始していましたが、「オブザベーション(観察)ワークショップ」も引き続き、参加者を募集中ですので、これを読んで興味をもっていただいた方もぜひ。