週末、ぼんやりと考え事をしていた時に思ったのだけれども、インターネット上の情報って、ある意味で連続性があって、また別の意味では連続性を持たない非連続性もまた持ち合わせているなあと思う。
佐藤さんが書いてらっしゃることを僕なりに要約すると、情報の発信者がコンセプトやストーリー、パーソナリティによって、サイト(ブログ)内で連続性のある表現(導線設計とかも含まれますね)をした場合でも、外部からの検索などにより、その連続性は必ずしも保たれず、情報の閲覧側からするとむしろ非連続であることが多いのではないかという考察です。
サイトに表現された連続性はいともたやすく分断される
これは僕が以前に「Webサイトの内と外」というエントリーなどで書いた「ページ単位のページビューが多いページは、外部から閲覧している割合が高くなる傾向」があり、Webにおいては「内部リンクより外部リンクが有効に働いている」ことが考えられるという考察と同じ景色を目にしての感想なんだろうと思います。この現象はほとんどのサイト(ブログ)のアクセス数をみれば現実としてわかることです。どんなにサイト内のナビゲーションシステムを工夫しようと、また、ブログで関連するエントリーを連続して書いたとしても、そうした発信者側の意図はいともたやすく閲覧者によって無視され、連続性は分断されます。
においを発する
かといって、サイトにおける連続性や不必要かといえば、おそらく、そうではないと思っています。ナビゲーション的な意味合いや連続的なストーリーという意味合いでは、閲覧者はそれを無視しますし、それは閲覧者の自由だと思っています。自由というよりは、実際、僕自身だってWebをそのサイトの連続性に応じて連続的に使おうなんてことは思わないし、そんなことはあんまりしません。
というのも、きっと僕自身にとっての連続性はやはり僕のそのときの思考の連続性のほうの重要度が勝ってしまうからで、外側の文脈より自分自身の思考の文脈に行動が従ってしまうからなのでしょう。結局、そうしたユーザーが自分自身の中にある文脈を優先することで、閲覧対象としてのサイト(ブログ)に表現された連続性は無視されることになります。
だからといって、サイトやブログにコンセプトやストーリー、パーソナリティをベースとした連続性がなかったらどうなるでしょう?
たぶん、そのサイトは匂わなくなる。
よい匂いを発して、閲覧者を魅了することがなくなるんだと思います。
本人がわかっていないことを説明されると聞く側もやっぱりわからなかったりするように、本人が強い意志をもって伝えようとしていないことを聞かされるのは退屈だったりするように、発信者側に連続性を構成するような基盤がない場合、それは相手に伝わらなくなるのでしょう。ましてや、それが発信者の意図とは裏腹に不連続的な利用をされるのであればなおさらです。部分を集めても全体にはならなくても、部分から一貫した意思を感じさせることは可能なのですから。
思ったとおりには伝わらない。でも、想わないと何にも伝わらないわけです。
という感じで、最近、伝える意思っていうのがすごく大切なものだと感じてるわけです。
それが1つの思考のテーマになってるのは、頭にブランディングのことがあるからなんでしょうけど。
ブランディングやりたいといいつつ、強い意志、伝える意欲がなかったりする場合が多々見られるので、よけいにそう感じるのかも。
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この記事へのコメント
nasubi
ミュージシャンもアルバム1枚にストーリーを込めて曲順なんかも考慮したりしますがiTunesなどで、1曲単位で購入できて自分で聞く順番も決めたりしますし。。
同じような現象だなと。。